TETRA'S MATH

数学と数学教育
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鈴木健『なめらかな社会とその敵』を教育関係者に読んでほしいと思う理由

 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健/勁草書房/2013)の「分人民主主義」の最後のところを読んでいます。



 これまで、「伝播委任投票システム」と、さらなる投票の可能性について、ほんのさわりだけざっと読んできましたが、先に進んで「7.3 分人民主主義の意義」を読んでいたら、なんだかこの本を教育関係者に読んでほしくなりました。このアプローチ、教育的な意義がとても大きいと思います。(でも、この本のままでは教育関係者にすすめにくいし読みにくいだろうな… かといって変に口あたりよく書きなおすと意味がないしな・・・)

 一応、細々と教材関係の仕事をしているので、私が(保護者としてではなく)お仕事で教育に関わるときには、ほんとうに「重箱の隅をつつく」作業をしています。でもそれは大事なことであり、つついてなんぼとも思っています。また、私が隅をつつき終わったあとで、他の人が重箱の蓋のヒビを見つけてくださったりすると、ドキっとして反省すると同時に、ありがたいなぁ!・・・としみじみ思います。

 その作業は、教材を作るうえでとても大事だと思うのですが、一方で、「この料理を入れるの、重箱じゃないといけないのかな?」というふうに、ときには根本的なところから考えなおさなくちゃいけないのではないか、ということも、ときどき考えるには考えています。

 さらには、算数・数学の話にとどまらず、学校教育の意味をもっと根本的に捉えなおしたくなるきょうこのごろ。特に学校公開で娘の学校に行っていろんな場面を見ると、その思いが強くなるのです。

 たとえば、次のようなくだり。ドキっとしませんか?

・・・,責任を要求することによって,自己は統合され,自らを合理化して制御し,それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして,社会的責任を通して一貫した自己が生まれる。

 (p.174)

 教育って、この「自己の統合」を「あたりまえのこと」として扱っているように思うのです。

 鈴木健さんの提唱する分人民主主義は、こうした自己の結晶化を否定するものです。そんなこというと教育関係者に怒られそうだけれど、自己の結晶化を否定するというのは、「私の存在」を否定することではなく、全体主義に陥ることでもないと思うのです。むしろ、上記のような自己の統合が、「私の存在」の心許なさや、集団のなかで活動していくしんどさを生じさせているということもあるのではないか・・・と思うのです。学校現場に、「私」と「公」があるのに、「共」がない。

 「こういう授業っていいなぁ!」と思う授業 (1)で示したあの算数の授業には、「共」があったのだと、いまさらのようにふりかえっています。それはいわゆる協同的学習ではなく、少人数制のなかの、普通の形態の授業ではありましたが、だとしてもともに学びあっていた。「共」には、「私」も「公」もゆるやかに混ざっている。動いている。

 近代社会システムは,国家と個人に主軸をおいて,個人の所有権を認めるとともに,国家に公共財の所有権を認めてきた。二軸のうち国家に重点をおくか個人に重点をおくかという争いが,20世紀の歴史の大きな潮流である。だがここで,そもそも公私の二分性で世界をみるのではなく,「共」の考え方を導入するとどうなるのだろうか。ただそのときに,共同体というはっきりとした主体性をまずもってくるのではなく,ゆるやかなネットワークの中で共有される状態を想像してほしい。つまり,私がもっていると思い込んでいるものは,じつは私に関係のあるネットワークに濃淡をもって遍在している。「私」というのはその中で濃いだけの存在にすぎない。そう考えると,所有という概念が揺るがされるのである。

 (p.170)

 鈴木健さんは本文の最後のページ(p.244)で、「・・・,本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態といっても過言ではないのかもしれない」と書いておられますが、この言葉が私にはしっくりきます。ということをここで書くと、仏教に詳しい人からも、数学に詳しい人からも、あるいは仏教にも数学にもさほど興味がない教育の専門家からも批判されてしまうのかもしれません。でも、そもそもそういう批判がなぜ成り立つのか?というところまでを掘り下げて考えさせようとする、そういう性質がこの本にはあるように思います。というか、そのような性質を、私はこの本から受け取りました。

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