TETRA'S MATH

数学と数学教育
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数式をはなれて、つらつら考えていること(2)/高校時代をふりかえる

(前回の続きです)

 私は小さいころオルガン教室に通っていて、その流れで、小学校からはピアノを習い始めました。小学校高学年までは、声楽を専門とされている先生にピアノを教わっていたのですが、その先生から紹介されて、小学校高学年からは、ピアノを専門とされている大学の音楽科の先生に教わるようになりました。同学年のもう1人の生徒さんといっしょに紹介されたので、ついでだったのかもしれません。(^^;

 新しい先生のところに通っている生徒さんは、将来、音楽の道に進もうとしている人がそこそこいたのだろうと想像しています。大学の音楽科の学生さんもいたし、私より小さくてバリバリの子もいました。練習をさぼりがちな私は、けしてピアノのレッスンを楽しんだとはいえず、どちらかというとプレッシャーだったのですが、不思議と苦痛でもなく、それなりに続けていました。

 しかし、年齢があがるにつれて、「私がここで教わっていていいのだろうか・・・?」という不安をおぼえるようになりました。才能のあるなしの前に、自分には音楽の道に進みたいというはっきりとした希望はなく、なのにこの先生についていていいのだろうか?という疑問があったのです。状況からして、「先生は私が音楽の道に進むと思っているのではなかろうか、そのつもりで教えていらっしゃるのではなかろうか・・・」と心配でした。

 高校1年生から2年生にあがるころ、理系か文系かを選ばねばならず、自分の進路を決めていかなくてはならない時期に入りました。音楽方向に進むなら、普通は文系になります。でも私は理系に進みたかった(ちなみに、理系方向で食っていくという発想もなかった)。

 そして、ピアノの先生に思い切ってたずねることにしました。まず、自分は音楽の道でやっていけるだろうか、という内容のことをききました。先生はわりとあっさり、でもまじめに、「うん、やっていけると思うよ」と答えてくださいました。もちろん、ピアニストで食っていけるという意味ではなかったでしょうし、私のきき方も、「音楽科に進めるでしょうか」という内容のものだったかもしれません。

 そのあと私は、音楽の方向に進むのならば普通は文系コースを選ぶことになるが、自分は数学が好きで、理系コースに進みたいと思っている、ということを先生に伝えました(音楽の道に進むつもりはない、といったかどうかはよく覚えていません)。

 先生の答えは、「いいじゃない、数学。ぼくも数学好きだったんだよねぇ〜 音楽なんて、趣味がいちばんじゃない」というもの。

 ふわ〜っと何かが溶け、気持ちがひらけていくのを感じました。

 なんだ! それでいいんじゃん!と。

 もしこれが、「うーん、音楽方向に進むのはやめたほうがいいかもね・・・」といわれていたら、気持ちは全然ちがっていたかもしれません。でも、逆にいえば、自分は「音楽っていいよ。がんばってみなよ。」と先生に言ってほしかったわけではないということもわかりました。先生は、私がもっとも望んでいた答えを言ってくださったのだと、言われてみて気づいたしだい。

 確か、私がその話を伝えてから、課題の曲がかわっていったように記憶しています。細かくは覚えていませんが、おそらく「趣味」の方向に進んでいったのでしょう。

 ピアノをやめたのは、高校3年生になって、補習などが始まって、忙しくなった頃でした。

 そんなこんなで理系に進んだのはいいけれど、私の進路はあいかわらずずっと決まらなくて、「未定」のままでした。そしてようやく・・・というか、結局ここしかないかなぁ・・・ということで、教育系の学部に落ち着きました。「まあ、教師になるかどうかは大学に行ってから考えよう、4年のうちに気持ちもまとまるだろう」ってな感じで、あいかわらず呑気でいい加減な自分。

 ところが、私の志望は小学校教員養成課程だったので、もはや理系クラスにいる必要はありません。しかし2次試験は数学Bと実技(音楽)の組み合わせを選んだので、文系クラスに移るほどのこともありません。したがって、共通一次が終わったあとは、朝礼が終わると教室を出て、ひとりで勉強しました。職員室の端の区切られたスペースでひとり数学の問題を解く、しあわせの時間。

 ちなみに、国語、数学、実技から2つ選択する2次試験だったのですが、音楽を選択する人は国語をペアにする人が多かったようです。私が数学を受けた教室は、半分が数学&美術組で、こちらはけっこう人がいるのに、あと半分の数学&音楽組は、私が把握できるだけで自分ともう1人だけでした。そしてそのもう1人は欠席でした。

 結果的に「隙間」に入り込んでしまう私は、当人が意図しないまま“なめらか”を地でいってたようです・・・^^;

 音楽の実技試験といっても、音楽科ではないので、そんなに高度なことは求められません。実際のテスト内容は、「リズムの新曲視奏」「表現のテスト」「ピアノの弾き語り」でした。小学校の先生だということもあり、難しい知識よりも、実際に楽譜が読めるかどうか、ピアノ弾きながら歌えるか、ということが求められるテストだったのでしょう(1番目と3番目)。ちなみに、3番目のテストについては、小学校の頃にピアノを習っていた声楽の先生に指導を受けました。

 面白かったのは、2番目の表現のテスト。このテストの内容を知ったときに、この大学を受験して本当によかったと心から思いました。この大学を選んで正解だった、と。その大学が小学校教諭に求めていることに強く共感したのだと思います。


 が。


 そんなふうに「正解!」と思えた大学の学部に入ったものの、あいかわらず自分の進むべき道が決まらず、とうとう私は4年生のときに、教員採用試験を受けないという選択肢を選びました。一応、小、中学校の教員免許はもれなくついてくるし、ちょっとがんばれば高校もとれるので、いただくものはいただいておき、それを履歴書に書くことで、その後の「食い」に役にたっているといえばたっているのですが。

 思えば、「将来、食いっぱぐれがないように・・・」という思いで親が(積み重ねれば膨大な額の)お金を出して習わせてくれたピアノや習字、そこでお世話になった先生方、ピアノを作った人、大学でいろいろ学ばせいただいた先生方、大学運営のために尽力してくださっている方々に、私は何の恩返しもできないまま、年を重ねてしまいました。

 いままでそんなことは考えたこともなかったけれど、PICSYが導入された社会で生きていることを想像すると、こと経済面に関しては、私の生産性・貢献度はあまりにも貧弱です。自分のことだけだったらあきらめもつくし、貢献度が低ければ購買力も低いというのは納得がいきますが、私が「評価」してきた人々への影響をなんとする・・・と申し訳なくなってくる。そしてあの歯医者さんで考えたことにつながるのです。この感覚は、PICSYを正しく理解している証となるでしょうか? それとも私は、PICSYを誤解しているでしょうか。

 ところで、こんなふうに考えることもできます。たとえば、同じピアノの先生に習っていて、音楽の道には進まず、音楽を趣味として楽しみつつ、他の事業で大成功した人がいれば、その人の株はあがり、中高校生時代に月謝として払っていたその人の株の価値があがることで、ピアノの先生の手元にあるかつての月謝の価値もあがるかもしれません。

 イチローが通ったラーメン屋さんは()、相手を選ばずきちんと仕事をしていけば、そのなかの何人かが「大成功」するかもしれませんが、30人の生徒しか受け持てないピアノの先生のレッスンも、それがその人にとってどういうものになるかは人それぞれであり、そのなかから世界的なピアニスト1人が出ることを目指すのと、音楽を趣味としながら、他の仕事でそこそこ収入を得る人をそれなりの人数輩出するのと、どちらが確率的には得策だろうか・・・?などと考えてしまうのです。そう考えると、ピアノの先生が見出すべき「才能」は、一概にはいえなくなってくると思うのです(ちなみに、そもそもピアノの先生が、そんなふうな気持ちで生徒に教えているかどうかは、ひとまずおいておきます)。

 PICSYについてリアルに、特に「インセンティブ」という言葉とともに考えていくと、皮肉なもので、「世の中ってそんなに単純かなぁ・・・?」と思えてくるのでした。

 もちろん、私は鈴木さんがこのような具体的な提案をされたことに大きな拍手を送りたいし、「PICSYを導入した世界がどうなるのかみてみたい、やってみたい」という気持ちも強いです。しかし、実際にワークショップが行われたような貿易の例についてはそう思えるのに、いざ自分のことになると、うーん・・・と考え込んでしまうのでした。

 鈴木さんも、PICSYが最善、最上の方法だなんていっていないし、あくまでもこれは具体的な一案なのだと思います。また、PICSYの実現に対する批判もとりあげておられていて、それについての反論や解決策についても述べられています。PICSYを批判するときに、それは通常貨幣に対してはあてはまらないかどうなのかを確認してほしい、ということも書かれてあります。一応、自分としては確認したうえで、上記のようなことをつらつら考えているのでした。

 お金を得る場合はPICSYで、払う場合はSECSYで・・・って、そんな他人頼みの無責任な話ってないですよね・・・?(^^; 貢献度ベクトルで考えれば、そんな発想の人の貢献度があがり、購買力があがることはあり得ないのだろうか・・・ということも考えたいのですが、計算はある程度追えても、固有ベクトルの意味がだんだんわからなくなっていくのでした。というか、固有ベクトルの意味がわかっていないことに気づくのでした。

投稿したあと気がついた

(つづく)

鈴木健『なめらかな社会とその敵』 | permalink
  

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