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数学と数学教育
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森村修「多様体と微分法」を読んでいく [6]/ダイナミズムの数学と「モナド」

 『多様体と微分法―田邊元の「多様体の哲学」(2)―「多様体の哲学」の異端的系譜(2)』森村修
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6372/1/
ibunka10_morimura.pdf


を、部分的に読んできました。きょうは「おわりに代えて−「種の論理」と〈数学の形而上学〉」(33ぺージめ/p.119以降)を読んで、ひとまず締めくくりにしたいと思います。



 田邊元は、古代幾何学をサブスタンスの数学、近世の解析幾何学をメカニズムの数学、そして19世紀の代数学をダイナミズムの数学と区分しているそうです。「19世紀の代数学がダイナミズム?」とちょっと不思議に思ったのですが、19世紀の形式主義集合論は解析学にもとづくメカニズムの数学であり、田邊元いうところの「運動の立場」で、19世紀以降のダイナミズムの数学は、「力の立場」に立っているものなのだそう。

 「運動の立場」というのは、デカルト幾何学の延長としての、ニュートン力学のような立場をさしているようです。この立場では、ものの運動を一方に動く一重の観方で捉えようとする。たとえば「流率(fluxion)」という概念は運動の側面から連続量を考察したものであり、現代数学でいえば、極限法の考え方と同じ世界観にもとづいている。下村寅太郎さんによると、ニュートンの流率論は「すべての量を無限小の要素の集合とせず、点、直線、平面の連続的運動によって産出されたものと解する」ことに、その根本思想をもっているとのこと。

 しかし田邊元いわく、デカルトやニュートンのような「機械的自然観」では、「力」を捉えることができない、と。力は一方向と反対方向というように、二つの別々の方向をもった力と考えたのでは成り立たない。力は順逆というものが一緒にならなければ考えられない。したがって、「力の立場」から見たときに初めて、連続は「二重の反対の方向の統一」というダイナミズムの力学的統一によって形成される、というふうに、田邊元は考えたようです。

 そのためには、ニュートンの意味での微分ではなくて、ライプニッツの意味での微分法が要請される。ライプニッツは、「真の存在」は延長的に拡がっているのではなくて、自分自身の力で内から発展するものであり、「内包的なもの」であると考えた。実体を内包的として解しようとする立場は、全体と部分とを排除的ではなく、共存的として認めるものでなければならない。一の内に多を、しかも無限なる多を含むもの、すなわち性質をもてる一として、量的一でなく質的一でなければならない。こういうものが、単に外延的な量に対する、内包的(intensif)な量であり、このような意味での内包量がまさしく「無限小」、「微分」と呼ばれた…という話が、下村寅太郎『ライプニッツ』の引用部分に書いてあります。

 そして、モナドが出てくるのです。

 それ自身は「一」にして内に無限を含むもの、外に部分をもつものでなく「それ自身によって一なるもの」(unumperse)のみが真に実在的な存在、実体であり得る。これをライプニッツは「単子」(monade)と呼んだ、と。

 モナドってそういうことだったんだ〜〜と、初めてほんの少しわかったような気がしました。

 ライプニッツにとって、実体(モナド)は、外延的なもののように部分を寄せ集めて全体を構成するのではなく、全体が先にあってその制限としてのみ部分が考えられるようなものだった。そして自らの内に「多」を「無限」に含み込みながら、性質を保持する一者である。

 論文ではこのあと、数学基礎論から弁証法的哲学へと移行した田邊元が、「種の論理」における「種」の問題を見出した話などが書かれてありますが、今回はだいたいこんな感じで読み終わることにします。

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