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数学と数学教育
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森村修「多様体と微分法」を読んでいく [5]/「単一性」は「質」

 『多様体と微分法―田邊元の「多様体の哲学」(2)―「多様体の哲学」の異端的系譜(2)』森村修
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6372/1/ibunka10_morimura.pdf

を読んでいます。



 前々回でも見たように、コーヘンにとって内包量は(さしあたり)外延量にとって先行条件として現れるものでした。どうしてかというと、数多性の統一〔=単一性〕が考えられなければならないとき、まず統一〔=単一性〕そのものが考えられなければならないから(あら? 『差異と反復』にこれに関わることが書いてあったような…)。その際に、統一〔=単一性〕としてしか理解されない統一〔=単一性〕がある。そしてそこには、この絶対的な統一〔=単一性〕にその場所を際立たせるための、事象論的な欲求がある。なぜなら、この欲求によって初めて、あたかも対象が生まれてくるように見えるから。

 ほんでもってこのあとJ・ヴィユマンという人が出てきて、さらにカントをからめた議論が展開されていくのですが、がっさり割愛して、田邊元がコーヘンを援用してもっとも語りたかったと思われることをまとめると、「実在的な物理学的対象が感覚の内包量=強度量に基づいて、外延量をもった現象として超越論的に構成される」ということになりそうです。こうして田邊元は、コーヘンの〈微分法の形而上学〉を物理学的対象の〈超越論的基礎づけ〉の方法論として重視した、と。

 私は、次の部分がわかりやすいと思いました(28〜29ページめ/p.114〜115)。

 外延量としての〈多なるもの=数多性〉がその要素である〈一なるもの=単一性〉をあらかじめ前提しなければならないとするならば、そもそもその〈一なるもの=単一性〉とは何なのか。たとえそれを「量」的なものとして、すなわち、数であれ外延量であれ、何らかのかたちで計測・計量できるものとして考えたとしても、それはまたさらに細かい数や量へと無限に分割可能である。そしてその際も、再び同じ問いが惹起されることは否めない。したがって、〈多なるもの=数多性〉を成り立たせている要素としての〈一なるもの=単一性〉は、もはや「外延量」としては規定されず、「質」として考えるしかない。

 私はこの説明を(あらためて)読んだとき、「比的率」は外延量という考え方(5)/「単位」の深みにはまるを思い出しました。「単位は生まれながらに内包量かもしれない」と思った話。あのときにはSI単位のことを考えていたので、直接つなげてよい話ではないかもしれませんが、単一性はもはや外延量ではなく、「質=内包量」であるという考えが、あの時点でのエキセントリックな感覚を通して、腑に落ちるのです。
意識の本性に基づけて連続量を考えるとすれば、もはや数の連続性は単純に外延量としての連続的無限ではない。その一方で、外延量としての数連続を、その当の数連続を分割することによって得られる、さまざまな部分の集積と考える限り、内包量としての微分概念は、その意味を失うことになる。外延量として数の連続性を捉えるのは、現代数学の立場であり、そのように考える限り、コーヘンの〈微分法の形而上学〉は台無しになってしまう。
 (29ページめ/p.115)

 田邊元は、単に現代数学に基づいて外延量として数連続を考えることもしなかったけれど、コーヘンに基づいて内包量が外延量を超越論的に構成することで問題が解決するとも考えなかったようです。「彼は、西田哲学に基づいて、数連続の無限性を意識の本性に基づけて、〈多なるものの統一〉を成立させようとした。つまり、田邊がコーヘン哲学を擁護しながら、コーヘン哲学とは一線を画する思考を持っていたと考えることができるのである」と森村さん。

 しかしラッセルは、こういう考え方は受け入れません。ラッセルにとって非外延的であるのは「点」や「瞬間」であり、dxもdyも数であって、点や瞬間ではない。したがって、それらは無限に小さい拡がりや距離に対応していなければならないが、dx、dyは距離にも拡がりにも対応していない。したがって、dx、dyは非外延的でもなければ、存在することもありえない、と(だいぶ端折っています)。私、ラッセルに会ったことはありませんが、何かにつけて、ラッセルらしいなぁと思います。>時間と変化についてラッセルはどう考えたのか 写真からしてそんな感じ(^^)

 田邊元は、“現代数学者”としてのラッセルの批判を受け入れた上で、コーヘンの微分論と、その形而上学を擁護しました。田邊元にとって、コーヘン哲学が重要であったのは、それが感覚を内包量の原理に即して基礎づけ、実在的で客観的な物理的対象の構成という先験的〔超越論的〕基礎づけを遂行しうると考えたから。実際にラッセルがコーヘンに反対したその内容については、「正当」だというふうに田邊元はとらえていたようです(31ページめ/p.117)。

 田邊元のように、現代数学側からの批判を受け入れること、そして、ある問題にあるアプローチで接近しているときに、自分が数学の学問性から逸脱しつつあることを自覚すること(35ページめ/p.121)は、大切なことなのだろうと思います。そしてなおかつ、以下のことも大事だと思います。
私は、田邊が思いのほかざまざまな角度から「種の論理」を精緻に理論化しようとしていたと考えている。単なる天皇制イデオロギーや、新しい社会哲学という意味合いを超えて、田邊の博覧強記ともいえる思考のダイナミズムは、「種の論理」を根底で支えている〈数学の形而上学〉の思考を駆動力としているといってよい。
 (33ページめ/p.119)


 っていうか・・・

 実は、おととい池田真治さんと森田真生さん(まんなかの2文字がおんなじだ〜!)を知った私は、もはや、現代数学者からの批判とか、「それは数学にとって有害であるかい否か?」的な議論に対する興味が激減しちゃったのですー^^;。


(つづく)
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