TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 玄侑宗久が使う科学概念と、柳澤桂子との往復書簡について | main | 森村修「多様体と微分法」を読んでいく [1]/リーマンの「連続的多様体」と「離散的多様体」 >>

遠山啓の二重性を、ラッセルをかませて考える。

 以前、今後のためのメモ2/近代数学と現代数学というエントリで、遠山啓の提唱した量の理論には、二面性、二重構造のようなものをよく感じる、といったようなことを書きました(なんか整理されていないエントリで、自分で読んでても意味がよくわからないところがありますが^^;)。その後も、遠山啓の二重性の印象は深まる一方です。

 しかし、遠山啓に二重性を感じるということは、遠山啓の論が矛盾している、一貫していない、ということではない、と思えるようになりました。その人がそのときに、遠山啓の何を見たのか、という問題である、と。

 たとえば倉田令二朗は、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」と述べました(※以前、このエントリのタイトルで「遠山啓は反圏論的」と書いていましたが、そう書いてはいけないと、いまになって気づきました)。遠山啓の現代数学観はすぐれて実体論的、<分解―合成>的、かつexplicit(明示的)であるという理由により。しかし私は、遠山啓の「現代数学観」および実際に展開された数学教育方法論はそうだったのかもしれないけれど、遠山啓自身の数学観、あるいは数学に望むもの、または「数学の未来像」は、けして反圏論的なものではなかったと思うのです。圏論についてはいまだよくわからないままに、予感として。

 そんなふうにして遠山啓はいろいろに見えること、ときには本人の意図せぬ色合いに見えることをいちばんよく理解していたのが、やはり森毅なのでしょう。>森毅が語る、遠山啓の思想の構図

 私は森毅のこのガイドで、以前より遠山啓のことが理解しやすくなりました。先のように二重性に出会っても、「どうしてだろう??」と首を傾げる必要がなくなり、「ああ、やっぱりね」と思えるようになったので。

 まだまだ二重性の例はあります。たとえば小島寛之さん。小島寛之さんは、遠山啓が数教育の方法論を模索してたどりついたのは、「ラッセル&フレーゲの自然数理論」だと書いていました。遠山啓の著作で確認したわけではなく、単なる憶測にすぎないが、銀林の教科教育法の講義の参考文献にラッセルの『数理哲学序説』があったことからみても、またラッセルの本の内容と遠山の方法の酷似から見ても、ほぼ確信に近い、と。>小島寛之が語る、ラッセル&フレーゲと遠山啓

 実際にそうだったのかもしれません。遠山啓はラッセル&フレーゲの自然数理論を参考にしたのかもしれません。しかし、だからといって、遠山啓がラッセルやフレーゲと同じ立場にたっていたのかというと、これまた短絡的に考えるわけにはいかないのだろうと思います(小島寛之さんもそう言っているわけではないのですが)。私自身は、遠山啓とラッセル&フレーゲを直結させる記述にはじめて出会って、あのときはびっくりしたのですが、森村修さんの(最初に見つけたほうの)論文を読んで、むしろ遠山啓は、量の理論においては、ラッセルと異なる立場にたっていたことを確認する思いがしました。

『多様体と微分法―田邊元の「多様体の哲学」(2)―「多様体の哲学」の異端的系譜(2)』森村修
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6372/1/ibunka10_morimura.pdf

 この論文によると、ラッセルは「内包量」概念の存在を認めていなかったようです。ラッセルは、「量」を「外延量」とだけ考えていたらしい。そんなラッセルは、ライプニッツ-コーヘンの「内包量」に関する哲学的議論を批判したわけですが(20ページめ/p.106)、そしてまた、数学的思考から徹底的に形而上学的=超物理学的思考を排除する人でもありました(28ページめ/p.114)。ラッセルは、コーヘンのような考えは全く根拠のない「神秘主義」であると考えたわけですが、そういえばフレーゲも、数学に感覚や心理学を持ち込むことがイヤな人でしたね()。“も”と同じ括りにしていいかどうかわからないけれど、一応、論理主義というラベルでおおまかにくくってもいけないことはないのではないかと。数学にウェットなものを持ち込むのがいやな人たちなんだな、きっと。数学を、ドライにクールに明晰に。

 遠山啓は、どんなジャンルに対しても、「まったく興味がない」()と思ったことはないだろうし、特に哲学はいつも傍らにおいていたと思うのですが、そうでありながら、つねに数学者であったのだと思います。哲学から得たものも哲学の土壌で考えることはせず、つねに数学あるいは数学教育の土壌で考えようとした。だから外延量・内包量についても、哲学者の定義は厳密ではないとして、ワイルのそれを採用したのでしょうね。

 もしかすると、遠山啓の外延量・内包量の区別を生理的に受け付けない人は、実はラッセル&フレーゲの系譜に属しているのかもしれませんね^^。また逆にいえば、内包量・外延量の区別は、遠山啓&数教協“レベル”の議論に終始するものでもなさそうです。
遠山啓 | permalink
  

サイト内検索