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数学と数学教育
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森村修『G・ドゥルーズの「多様体の哲学」(1)』を読みながら、申し訳ないような、さびしいような気持ちになったのは

 ポスト複雑系(2)/マニュエル・デランダの準因果作用子というエントリにおいて、森村修さんの次の論文をリンクしました。

G・ドゥルーズの「多様体の哲学」(1)
──「多様体の哲学」の異端的系譜(3)──

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/
10114/6331/1/ibunka12_morimura.pdf


この論文を読み始めたとき、以前見つけた別の論文を読んだ際にはなかった、ある種のさびしさのようなものを感じました。それは、次のくだりに対してです。

そもそも「多様体Mannigfaltigkeit (manifold, multiplicity,multiplicité)」概念は、19 世紀の数学者B・リーマンによって決定的な位置を与えられた。近代数学史を少し繙けばわかるように、この概念はその後のカントールによる超限集合論にも影響を与えている。しかし私は、数学史・物理学史のなかで多様体概念がどのような理解の変遷を遂げたか、またそれによって数学や物理学がどのように変化したかについては、まったく興味がない。

 (3ページめ/p.105)

なぜ森村さんはここでわざわざ、「まったく興味がない」と宣言しなければならなかったのでしょうか・・・

ちなみに、以前見つけた論文でも、これに近いことは書かれていました。

 しかし私としては、リーマンの学問業績を網羅し、その足跡を辿りたいわけではないし、そもそもそのようなことは不可能であり、その必要もない。またリーマンの哲学的な先見性を強調するために、彼の数学思想を検討するわけでもない。リーマンの講演から、数学の哲学へと繋がる思考を読み取ろうとするつもりもない。私の意図はこれらのこととはまったく別のところにある。すでに述べたように、私はリーマンの講演が思わぬところに影響を与え、新しい哲学の可能性を開花させたと考えている。

 (2ページめ/p.88)

しかしこちらの文面には、哲学的ポジティブさのようなものを感じます。それにひきかえ先の引用部分には、数学的・物理学的ネガティブさのようなもの-----それはもちろん、森村さんのネガティブさということではないのですが・・・-----を感じてしまうのです。

私はふだん、自分のいま考えていること、考えたいことが数学でなくてもちっともかまわないと思っているし、頭のどこかで「数学がなんぼのもんじゃい」とも思っているのですが、このくだりを読んでしゅんとしたときに、「ああ、私は数学が好きなんだなぁ」としみじみ思いました。たとえ数学者ではなくても、高尚な数学の知識は身につけていなくても。だから、森村さんに対して、だれかのかわりに謝りたいような、弁明したいような、複雑な気持ちなったのだと思います。

そして、『G・ドゥルーズの「多様体の哲学(1)」のほうの続く4ページめ(p.106)には、

その結果、数学的な多様体概念が、ベルクソンと、彼の哲学を再解釈するドゥルーズを介することによって、まったく異なる相貌を見せることになるだろう。もちろん、それは数学的な含意を含みながらも、独特な哲学的解釈による「変奏variation」として提示される。

という記述があり、ここに「巻末註6」の数字がふられています。けっこう長いですが、「巻末註6」を全文引用してみます。

ここで私は、数学概念の哲学的“濫用”を考えている。もちろん、私の念頭にあるのは、「サイエンス・ウォーズ」として思想界のメディアを賑わした論争である。そこでは自然科学的概念の哲学思想への転用をめぐる問題が取りざたされていた。自然科学的概念や数学的概念の“濫用”や“誤解・曲解”の指摘と批判については、ソーカルとブリクモンによる『「知」の欺瞞——ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎他訳、岩波書店、2000年)が参考になる。また、日本内外で、自然科学者から、いわゆる哲学者や思想家に対して、自然科学理解の不十分さや誤解、曲解をあげつらう指摘は枚挙にいとまがない。特に、いわゆる“ポスト・モダニズム”に属する思想家たちが批判の標的とされている。ソーカルらの批判対象は、精神分析学J・ラカン、哲学ドゥルーズ/ガタリ、建築学P・ヴィリリオ、ジェンダー思想L・イリガライなどである。また日本に目を転じれば、1980年代に「ゲーデル問題」を取り上げた柄谷行人、“ニューアカデミズム”の寵児として登場した浅田彰、中沢新一などである。彼らもまた半可通の数学的知識を振りかざして、縦横無尽にメディアを賑わした廉で批判されている。しかしその一方で、科学者が自らの思想や「哲学」を語ることについては問題にされないことは不思議である。本来ならば「ヒューマニティーズ・ウォーズ」とでも言うべき現象が起こってしかるべきなのだが。例えば、“解剖学者”養老孟司や“脳科学者”茂木健一郎などの“自然科学者”が哲学的な認識や倫理的な判断、さらには宗教の問題を語ることについては肯定的に評価される傾向がある。

 (26ページめ/p.128)

森村修さんは哲学の立場から、「ヒューマニティーズ・ウォーズ」という言葉を使って、この一件への疑問を示しておられますが、私はむしろ、数学や物理学の立場から、身内から、この一件に疑問を呈し、批判すべきではないのか、と感じています。数学や物理学を不当におとしめる(可能性のある)できごととして。

以前、数学と権威/数学と自然というエントリを書きました(なお、あのときには、圏論の勉強で感謝している---からこそ---檜山正幸さんの言葉を借りたのですが、向けるべき矛先はほかにあったのかもしれません)。なんというのか、私には、数学用語か科学概念を「権威づけに使っている」、あるいは、「彼らは、そういう概念を使うと頭がよさそうに見える、かっこよく見えると思っているのではないか」と言う人たちのほうに、「逆権威思考」のようなものがあるのではないか、と感じています。物理学や数学を、他の学問や概念の上位におく志向というか。数学や物理学や自然科学の「権威」にリアリティを感じていないと、それを他人にあてはめることはできないと思うのです。そしてそれは、かえって数学を小さくまとめてしまうものであるように感じています。「それほどのもんじゃないよ(たくさんあるうちの1つでしょ)」という気持ちと、「その程度のもんじゃないよ(そんな底の浅いもんじゃないでしょ)」という気持ちの両方があります。

実は少し前に、あることがきっかけとなって、ドゥルーズのことをぼんやり考えていたら、ふと、こんな妄想が口をついて出ました。いや、声には出していないから、口をついてでたというより、頭をついてでたのですが。「もしかして、ドゥルーズの流れにのれていないのは、数学と物理学だけ?」と。なんの根拠もない、ただの妄想です。なぜそんな言葉が頭をついて出たのか、自分でもよくわかりません。そのあとで、昨今のドゥルーズ需要について調べたら、やはり少なくともこの5〜6年の間に注目度はあがっているのですね。読まれ続けているのか、再燃しているのかはよくわかりませんが。http://book.asahi.com/clip/TKY200711150094.html
http://frenchbloom.seesaa.net/article/164195762.html

なぜ、特に興味もなかったのに、何かというとドゥルーズに行き着くのか不思議だったのですが、それも時代の流れなのかなぁ、といまでは思っています。

そして、先の妄想のあと、「サイエンス・ウォーズ」と当時のアメリカの状況 (1)で書いた、クリントンの政策のことを思い出しました。→「20世紀は物理学の世紀であったが、21世紀はライフ・サイエンスの世紀である。政府は今後ライフ・サイエンス支援を主とする」 だから、ソーカルらアメリカの物理学者にとっては、「逆権威思考」というよりは、「焦り」に近い感情があったのかもしれません。ついでに、少し前に生活ブログ:TATA-STYLE橋爪大三郎『はじめての構造主義』に関する連続エントリを書いていたことも思い出していました。

「サイエンス・ウォーズ」は、確かに一度は起こさないといけない事件だったのだろうと思います。そしてインパクトのためには、多少やり方が荒く&粗くならざるを得なかった面もあるのかもしれません。しかし、これは乗り越えられるべきウォーズなんじゃなかろうか、そしてまだ、乗り越えられていないのではなかろうか・・・と感じています。

もう私の知らないところで乗り越えられているのかな?という期待もあるにはありますが、郡司ペギオ幸夫が『現代思想』2013年1月号で、「果たして、ジル・ドゥルーズの生命哲学は、描像Aを指し示すものだった。しかし、それは自然科学の文脈で、十分理解されているだろうか」()と書いているところをみると、少なくともドゥルーズの哲学を自然科学の文脈で理解する試みは、まだ十分に行われていないのでしょう。あるいは、まだ始まってさえいないか。

私は、森村修さんの「まったく興味がない」という宣言にしゅんとしてしまったのですが、もしかするとこの宣言は、“現代の”自然科学者が、哲学に対して、言うともなく言い続けてきたコトバなのかもしれません。

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