TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「比的率」は外延量という考え方(8)/遠山啓の「水槽」について考える

【「比的率」は外延量という考え方】

(1) 比的率とは何か
(2) 問題意識
(3) 「割合の三用法」の組み換え
(4) 国際単位系SIと「単位1」
(5) 「単位」の深みにはまる
(6) 割合のイメージ
(7) 比例の式のとらえ方



(8) 遠山啓の「水槽」について考える

 そう言えば、もう一方の方向の念押しを忘れていました。私はときどき、遠山啓や数教協を批判するようなことを書いているかもしれませんが、心の中にはいつも遠山啓と数教協に深い感謝と応援の気持ちを抱いています。何しろ、自称「数教協の落とし子」なので。だからこそ、折に触れ、自己批判の目で数教協や遠山啓の理論をふりかえっているのですが、そういうことをしながらときどき心配になることは、(数教協自体はもちろん健在だとしても)「量の理論」って、もはや、はるか昔の遺産になっちゃってるんじゃないかしらん?ということ。しかし、どうやら「量の理論」の影響は確実に残っているらしいということを、皮肉にも、批判する人々から教えられています。ああ、そのくらい批判されるほどには、残っているのだな…と、ちょっとほっとしたりして(^^)。

 さて、その数教協の理論には、「シェーマ(schema)」という言葉がよく出てきます。これは「図式」のことであり、ひとことでいえば、「構造の理解を容易にするような、なんらかの感性的な思考のモデル」としての「映像的なもの」です。数教協では、具体と抽象を結ぶ「半具体」のものとして使われていると私は理解しています。線分図もグラフもなんらかの図であれば図式ですが、数教協のシェーマとして代表的なものとしては、タイルや、比例水槽、関数のブラックボックスなどがあげられるかと思います。

 今回考えたいのは、そのうちの「水槽」です。遠山啓は、比例の学習のシェーマとして、水槽を提案しました。水槽に網状の仕切りを入れて2つの部分にわけ、それに水を入れていくことで、片側に入る水の量xと、もう一方に入る水の量yの変化をとらえさせようというものです。

 遠山啓が「水の体積」という題材を選んだのは、何よりも連続的な変化が映像化できるからでした。針金の長さは自由に増減するとは考えにくいし、重さも映像化できない。また、分量と値段も連続的な変量と考えるのは難しい。その点、水の体積は、しだいに水をふやしていく状態を子どもに観察させると、連続的な増加を生き生きととらえさせることができる、というわけです。さらに、水をだすコックをつけておけば、連続的な現象も生き生きととらえさせることができる、と。(こういう話になると、メタメタの日「水落とし」と私の反省を思い出しますね^^)

 つまり、連続変化を2つ並列した映像で、正比例の構造をとらえさせようとするのが、シェーマとしての水槽の目的でした。
このような典型的な映像をはじめにあたえておくと,正比例の内面的な構造をとらえることが容易になる。正比例をこのように二つの変量の関係としてとらえる場合は,すでに関数の考え方が頭をだしている。これは,x∝yという関係のほうがさきにでてきて,y=kxがまだできていない場合である。このときの比例定数kは、量の体系では内包量にあたるが,このkがはじめから表面にはでてこない場合である。これはkが一つの物体の属性とは考えにくいときである。
たとえば,sin や cos のような場合は,角が一定のとき,
   対辺∝斜辺
がさきにあって,
   対辺=k×斜辺
がそのあとにでてきて,この k を sinθ と名づけるというプロセスをとっている。この場合は正比例をさきにやって,そのあとでkという率を定義するほうがしぜんであろう。
(『量とはなにか―機p.57〜58/斜体は傍点付き)

 水槽では、xの水の量とyの水の量の実際の比率はわからなくてもいい(むしろ未測量のまま考える)わけであり、とにもかくにも、xが2倍、3倍、・・・になれば、yも2倍、3倍、・・・になるということを感覚的にとらえさせて、それを正比例の学習の助けにしようとしたのだと思います。ちなみにこの直前では、日本の国定教科書が倍比例と三数法とのあいだをよろめいていたこと、帰一法が1回も出てこなかったこと、帰一法のほうがよいこと、帰一法の特徴は二つの変量を対比しながら考えていく点にあることなどの議論が示されています。

 なお、倍比例・三数法・帰一法の違いを、「3mの重さが12gの針金があります。この針金5mの重さは何gですか」という問題で示すと、次のようになります。

■倍比例・・・12×(5÷3)
■三数法・・・3:12=5:x から、(12×5)÷3
■帰一法・・・(12÷3)×5
 
 また、遠山啓は、小学校における比例の定義は、現在そうなっているように、式ではなく、2倍、3倍・・・で定義することを推奨していました。公式を出発点とすると、公式を忘れたらいきづまること、無数にある比例関係の一つ一つに公式がつくられているわけではないこと、そのため公式から出発すると比例の適用範囲がいちじるしく狭められてしまうこと、比例をはじめて学ぶ小学校6年生に公式をもとにする思考が自由にできるとはとても期待できないこと、それよりも公式の背後にある基本的な思考法をじゅうぶんに定着させるべきであること、などをあげています(『量とはなにか―機p.135〜136)。ちなみにこの直前では「割合は,連続的な外延量が終わったあとで,二つの連続的な外延量の比較としてだしてくるべきものだと思う。その対比から,度や率などの内包量が生まれてくるのである」ということが書かれてあります。

 公式云々の話のあとでは、ニュートンの万有引力の法則の話などが出てくるのですが、遠山啓にとって、各数量関係で表される y=ax の形の式は、すでに「公式」であったようです。(7)で見たように、比例の式はありふれたかけ算の形をしているわけであり、単に変数としての文字がないというだけで、子どもたちは比例の一場面を式に表現することをそれ以前からやっているわけですが、そうだとしても、遠山啓にとっては「公式」として捉えられていたのでしょう。

 比例水槽については、以前、比例水槽が出てくる面白い論稿発見で、下記URLの論文をご紹介しましたが、今回、注目したいのは、3ページめ(p.110)の最後で示されている、次の指摘です。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/35601
大田邦郎は,遠山の水槽について,「同種の量の比例関係(yl=xl×a)を表わすものにすぎない」と述べた。さらに,大田は,遠山の水槽について,異種の量の比例を表し得ないことにも言及した。
 実際、水槽で変化させる2量はどちらも水の体積であり、これは同種の量なので、比例定数は「率」ということになります。また、均等分布は考えにくいので、「比的な率」ということになります。遠山啓としては、矛盾はないのかもしれません。先の引用部分でsinやcosを出してきていることからもわかるように、比例することはわかっているが、比例定数はわかっていない、そのような例として、水槽のモデルを示したのかもしれないので。そうしたのちに、xとyの比例定数として「割合」を求め、連続して変化していくそれぞれの段階を比較することで、xL:yL=2L:3L=4L:6L=6L:9L=・・・ というふうに、比にもつなげていくことができる、ということなのかもしれません。

 そう考えると確かに、「度→度的率→比例→比的率、比」という順番にはなっているように見えますが、「度的率」と「比例」との間に大きな断絶ができてしまっていて、実は「度→度的率  比例→比、比的率」というふうに、比例の直前で「それはおいといて〜」になっています。そう考えると、瀬山士郎先生が『算数の目・数学のすがた』で食塩水の濃度という「度的な率」を使って比例を説明しているのは、いまとなってはなるほど・・・と思います> が、もちろんこれを小学校で採用するのは無理があります。そもそも、この本は「帰りの目」(高校以上の数学の目)で算数のすがたを見るものですから、採用を考えているわけではないとは思いますが、もし採用するなら、度的な率を理解するために率の理解が必要でしょうし、比例の定義をかえる(中学校と同様に「式」で定義する)必要も出てくるかもしれません。

 帰一法というのは、いってみれば比例定数を求めてからあれこれ問題を解く方法であり、途中で出てくるその量(比例定数)は、ほとんどの場合、あるいはすべて、○/△という形の単位がつく「度」または「度的な率」のはずです。それにこだわっておいて、帰一法とは関係のない方法で比例を導入し、しかもそのときの定数が「比的な率」になっている。帰一法を理解するためには動的な2量の関係だからそうするということであれば、それこそ(教育論上での)本末転倒の循環論法になってしまうでしょう。

 そして今回、あらたな疑問が浮上してきてしまいました。

 いま、「比的率は外延量かもしれない(そう考えたほうが自然)」ということについて考えているわけですが、そうなると、比的率は、「量の理論」のなかでは比例定数になり得ないということになってしまうのです。遠山啓も上記引用部分で言っているように、y=kxのkは内包量であり、これは関数としてとらえようとしている2量がどちらも外延量で、それらの商が比例定数となることかわもわかります。しかし、もし、「比的率」が外延量であるとしたら、これまでの話がまったく成り立たなくなってしまいます。

 「だったら、比的率はやっぱり内包量なんじゃない?」という結論を出すことも可能でしょう。しかし、もしそうだとして、何をどうしてもy=kxのkが内包量だとすると、(7)で示したような、「1辺の長さがxcmの正方形のまわりの長さycm」はy=4xと表され、この「4」が内包量ということになってしまうのです。正方形に辺が4本あるというその「4」、すなわち「いくつ分」が、「1あたり量」になってしまわないでしょうか。いったいこれをどう考えればいいのか? これが最初から、「xの4倍はyです」になってれば、4倍=内包量ということで、矛盾はないように見えます。でも、xの4倍は、「x×4」と書くのが小学校では主流ですよね? そうなると、内包量・外延量という観点では、かけ算の形が、「内包量×外延量」(3個/人×7人)と「外延量×内包量」(3個×7倍)の2通りにわかれてしまうのです。なお、倍や割合の場合は、かけ算、関数、モノとハタラキ (1)の最後の図のように、直接「×1.5」「×割合」が示せて便利ですが、「1あたり量」の場合は、「2.3g/m×(   )」といった形で示さなくてはならなくなります。

 ということに、「比的率は外延量かもしれない」と考えることで、逆に、あらためて、気づかされたわけなのです。

 数教協の「量の体系」にそくした「割合」の学習というものの具体例をあまり見たことがないので、いまのところ手元の資料は『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』(1989年)だけなのですが、このなかでブラックボックスが多用されているのは、倍や割合の関数を、2つの外延量から導きだされる内包量とは区別して、「量に加えられる操作および量と量との間の関係」という関係概念を学ぶことにある、としているからだろうと思います(p.8にそのような記述があります)。「関係概念」という言葉にブラックボックスはよく似合います。

 以前も書いたように、ブラックボックスを使いはじめるときには、「ふた→ぶた」「カラス→ガラス」といったことからはじめることがよくあるのですが、つまりブラックボックスは、対応関係として写像を扱おうとする性質のものです。したがって、ここでいったん量をはなれてしまうので、比例の導入で水槽を使ったことと、直接つなげることができません。結果、別物として扱うことになります。水槽は比例のシェーマ、ブラックボックスは関数のシェーマであり、遠山啓は比の学習を関数の学習とつなげて考えようとしていたと私は思うのですが(当時の教科書との関連もある)、こんなふうに比例と関数のシェーマが断絶していたら、つながるものもつながりません。結局、高校までの数学を、近代でとめるか、現代までつなげようかというする葛藤が、こういうところにも現れているように思います。
 
 そう考えていくと、私が確認しているだけで2通りある量の系統図のうち、倍と比を内包量からはずしている系統図のほうが妥当に見えてきます。つまり、倍は内包量ではない。そして、比的率と倍の区別をどうつけるんだろう?という疑問がわいてくるわけなのです。倍がつくる正比例関係については、瀬山士郎『数学の目・算数のすがた』にも書かれているので、次回みていくことにします。

(つづく)
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