TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「比的率」は外延量という考え方(5)/「単位」の深みにはまる

【「比的率」は外延量という考え方】

(1) 比的率とは何か
(2) 問題意識
(3) 「割合の三用法」の組み換え
(4) 国際単位系SIと「単位1」



(5) 「単位」の深みにはまる

 まず最初に確認を。(1)のはじめのところで書きましたが、私はいま自分が考えていることについて「これが正解!」だと思っていませんし、ましてや学校教育ではこう教えるべきだと主張するつもりもありません。また、tetragonさんは(メタメタさんのブログのコメントからもわかるように)「かけ算の順序」を固定することには意味があるという立場にたっていらっしゃいますが、私はその立場にはたっていませんし、tetragonさんのそういうスタンスを根拠に、tetragonさんの考えを受け入れたり拒絶したりすることもしません。いまの私は、教室の外で教育論を展開する位置にではなく、教室の中で「何がスタンダードかは脇においといて、あれこれ自分なりに考えている生徒の位置」に立っていると思っていただければ幸いです。tetragonさんからいただけるものを貪欲にいただこうと思ってます。v(^^)

 さて。

 かつて、水1リットルの重さは1kgであるか?(1)(2)(3)というエントリを書いたことがありました。単位について考えていると頭がくらくらしてきます。で、今回、国際単位系SIのなかの「単位1」のことを読み、さらにtetragonさんから単位システムのお話をうかがっていたら、これまでとは別の意味でくらくらしてきました。(^^;

 前回の復習をすると、量の値というのは、数字と単位の積で表されるものでした。そして、その数字というのは「量の比」のことでした。ひとつの数なのに、「量の比」。まさに、遠山啓が批判した「割合分数」の発想ですよね()。だからこそ遠山啓は、単位のない 2/3 ではなく、単位をつけて量として成り立っている 2/3m をもとに、算数教育の体系を考えようとしたのでしょうね。

 そういえば、「量の体系」について考えるとき、いつも「比」はあとまわしに(というか除外)していましたが、そもそも比というのは、2:3とか3:5とかいうふうに、2つの数値から作られるものであり、これまで見てきたようなわり算で作られる値、すなわち商であるところの「度」「率」そして「(内包量ととらえていたときの)倍」とは一線を画すという感覚が私にはありました。「比の値」ならともかく。

 そういえば遠山啓も、もし、2:3が2/3とまったく等しいのであったら、ことさらに2:3というべつの記号を使うはずはないはずであるし、また、2:3と2/3が異なるのであったら、最初に、どのように定義するかを徹底的に考えてみるべきである、というようなことを書いていましたっけ(『量とはなにか―機p.126)。また、これこれこういうふうに定義できるが、そのような高度に抽象的な定義を初等教育にもちこむことはもちろん当をえていない、とも書いています。

 でも、たとえば黄金比ときくと、何かひとつのものを表している気がしないでもないです。

 とにもかくにも、5メートルの「5」は、「比」なんですね。これは、5/1という、分数として表された関係と考えればいいのでしょうか。そういう話になると、確かに宮下英明先生がおっしゃるように()、「数は量の比」なのかもしれません。

 しかし、5という数自体は、いわゆる連続量を表すよりもまえに、それこそ家畜を数えていたころに存在していましたよね。1、2、3、4、5の5として。でも、そうして生まれた「5」は、他のものと分節された「1」あっての、そしてその「1」と同質のみなされたうえでの「5」と言えるのかもしれません。2は生まれながらに「2/1」であり、5は生まれながらに「5/1」であるのか・・・? 一応、遠山啓の論も示しておきます。>「数のまえに量がある」by遠山啓

 ちょっと話はずれますが、かつて「単集合」を考えていたとき、ホワイトヘッドとラッセルが自然数1を定義するために導入したという小難しい概念に出会ったのですが(>その「1」はどの1ですか、その「0」はどの0ですか。)、いまださっぱり理解できないまま思うことは、自然数1を定義するって、なんて難しいんでしょうということ。いや、定義したのは私じゃないから、こんなことしなきゃ定義できないのかとびっくりしたというか。

 ほんでもって、分数と互除法・01で、赤い棒aの長さと青い棒bの長さをもとに、連続量から分数や小数がどうやってでてくるかを示しましたが、結局、棒のどちらかの長さを「単位」としたときに、もう一方の棒の長さの値は、その「単位」を使って示すことができる、ということになるのだろうと理解しました。なので、あの図で、aがbのちょうど3個分だったとして、bをボウという単位に設定すれば、aの長さは3ボウとなるわけですね。しかし、本当はこれ、日本式に書くと、「ボウ×3」だから、「ボウ3」としたいところ。つまり、5mって、日本式でいけば、m×5→m5 であり、8kgは kg×8→kg8 ってことになる!? でも、尺貫法も、それこそ以前メタメタさんが指摘した命数法()も、数字が先で、単位が後というパターンになっていますね。

 まあ、それはよいのです。

 このあと、少々エキセントリックな話になっていきますので、不愉快な方は読み飛ばしてください〜〜(^^; (逆にこれがあたりまえの話だとしたら、私にとってはカルチャーショック)

 いま、「比的な率は外延量かもしれない」と考えているわけですが、その立場にたつと、量を成り立たせている単位についている数字、すなわち「量の比」は「外延量」なのですから、ボウ×3=3ボウ と書けるこの数量関係において、「ボウ」は内包量ということになってしまいます。「ボウ/1」とでも書きたいような。

 そうなるとですよ・・・。たとえばメートルって、単位として他の長さに先立って設定されていながら、生まれながらに内包量ということになってしまいそうなのですよ。そんなことってアリ!?!?と最初は思いました。だけど、長さの「単位」という役割を与えられた瞬間に、「他の量と比較するとき、比で表せば1にあたるほう」になるために、内包量になる運命にあると考えると、だんだん「そういうことってあるかもしれないねぇ」と思えてきました。そういうことなんだよ、と人を説得することはできませんが。

 だから、厳密にいうと、1メートルとメートルは違うのでしょう。1メートルは、1という数が与えられて確定した外延量、メートルはまだ確定していない“数値待ち”の内包量。「単位」って、いちばんえらそうでいて(!?)、実は他の量との比がないと形が与えられないものなんだなぁ、なんて思ったりして。だから、「基準となる量」ではなくて、「基準となる特別な例」なのかな。だって、量の値は、「数字×単位」だから、単位だけでは量の値になりえないはずだもの。うーん・・・自分で書いていてやっぱり不思議だ。なんか、内包量というものの見え方が変わってきそうな予感。

 そういえばワイルは、外延量は加法的なものと定義したようですが()、内包量はどう定義したんでしょうね? 「加法的でないもの」で終わりだったのかしらん。ちなみに、「単位1」を認めたときの「何倍か」は、加法的になるので外延量としての定義はクリアすることになりますね。米100gの20%と米100gの30%をあわせると、米100gの50%になるから。食塩水全体の量を固定すれば、濃度20%と濃度30%だって、20+30=50(%)となり得ますが、こちらには「結果的に」と付け加えたくなるのは私だけでしょうか? そうなると、こどものちかく娘と分数を勉強しながら発見したことも思い出します。

 かつて、既測量を「1」とおくことは困難か?ということを考えましたが、思えば「単位」そのものって、既測でも未測でもないのですよね(もしかして無測!? あるいは非測!?)。そして、「1とおく」必要はなく、こちらも最初から、「1あたり」と言えてしまえることになります。つまり、上記エントリの中の図の、4個のオレンジの●の下にある青い長さを、本当に「単位1」にしてしまう。宮下先生が遠山啓の批判のなかで「1と見る」という言葉を使っていることに首を傾げていた私は()、『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』の「割合」で「1と見る」が出てくるのを見て()なるほど思ったのですが、「比的率および倍は外延量」という立場にたてば、ここでも堂々と「1あたり量」と言えることになるのかもしれません。実際にそうすることを推奨するわけではなく。

(つづく)

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