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数学と数学教育
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ポスト複雑系(1)/『現代思想』2013年1月号

 先日、図書館で『現代思想』をのぞいていたら、2013年1月号に 「現代思想の総展望2013」という特集があり、郡司ペギオ幸夫さんが「ポスト複雑系」というタイトルで短めの文章を載せておられることを知りました。

 私は十数年前に複雑系にはまったことがあるのですが、いまとなってはきっかけや経緯が思い出せません…と書こうとして過去のエントリを検索して読んでみたら、あらま!箱庭療法の本だったんだ〜〜知らんかった・・・いや、自分のことだから知らんかったんじゃなくてすっかり忘れていたわけなのですが(^^;>複雑系の思い出・01複雑系の思い出・02

 とにかく、「ここには何かある!」「私はこういうことを求めていた!」)と感じて、しばらくテンションが上がっていたのでした。

 山口昌哉先生の複雑系のレクチャーをきいたのは、たぶん1997年のことだと思います。山口昌哉先生が遠山啓著作集の解説で、「私たちは,まさに先生のいっておられる,10年前に予見しておられた方向に数学を発展させており,たとえば,この本の第珪呂僕集されている数学の未来像,つまり,構造的で,かつダイナミズムを描く数学がようやく開拓できた。遠山先生はそれを私から聞くことなく亡くなられたのは,まことに残念である」と書かれたのは()1970年代の後半だと思うので、まだ複雑系という用語は生まれていない頃ですね。でも、『非線型現象の数学』を1972年に出しておられるし、上記の文章を書かれたころは、カオスとフラクタルの研究もされていたのでしょう。

 『現代思想』2013年1月号に掲載されている郡司ペギオ幸夫さんの文章は、「複雑系という概念を目にしなくなって久しい」という一文から始まります。そして複雑系は、現実的な生物や脳を理解する方法論と目され、システムバイオロジーやシンセティックバイオロジーに呑み込まれたといっても過言ではない、それはシステム論への回帰である、と。

 折りしも、先日リンクした永井俊哉さんの文章は「システム論アーカイブ」のなかの記事でしたが、永井俊哉さんはルーマンの研究を経て、システム論へと入っていたようです。
【参照】『縦横無尽の知的冒険』のインタービュー記事↓
http://blog.goo.ne.jp/press_kim/e/
73a870b875a704ef0fa0d8bc53282673

 郡司ペギオ幸夫さんは、システム論を、「部分の総和(モノ)と、それを越えた強度的全体(コト)との両義性を認め、両者の配分に関するスペクトラムをパラメーターの違いで判断すること」としたうえで、「ここに、生命や意識を理解する知の革新があるだろうか」と問いかけます。というわけで、この小論は、システム論への誘惑を断ち切って、ポスト複雑系の道を探っていこうとするもののようです。

 システム、あるいはルーマンときけばオートポイエーシスのことを思い出しますが、それまでオートポイエーシスのことがなんだかよくわからなかった私がはじめてこの概念を少し理解できたような気がしたのは、皮肉にも、郡司さんがオートポイエーシスを批判的に検討するなかで「痛み=傷み」という言葉を使ったときでした。>郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったこと

 上記リンク先の映像は2007年のものですが、先日見つけたオープン・ネイチャーのシンポジウムはその2年前であり、ここにも「痛み」というキーワードが出てくるようです。

 郡司さんいわく、システム論においてモノとコトの両義性は予定調和的である、と。しかし、本来、自己組織化や創発という概念は両刃の剣であり、局所的相互作用の様式を既知とし、そこから決して想定できなかった大域的相関がみつかったという(これが創発の定義)ためには、局所的相互作用を確定すると共に、文脈が確定できないこと、局所的相互作用が規定できる境界条件の確定が恣意的であることを受け入れざるを得ない、と。
想定外の大域的相関、パターンや機能的振る舞いといった、肯定的結果だけを受け入れ、解体の可能性に不断に開かれているという否定的性格については目をつぶる------そういったご都合主義は、採用し得ないはずだ。
 (p.76)

 上記引用部分の「解体の可能性に不断に開かれているという否定的性格」という言葉が、私にとっては面白いし、わかりやすいです。「解体の可能性」という言葉が、「解体の(ネガティブ)+可能性(ポジティブ)」という組み合わせになっていて、さらにそれが「不断に開かれている(ポジティブ)という+否定的性格(ネガティブ)」という組み合わせの言葉に続くということが。

 システムの時間的発展に関する因果律がいつなんどき覆されるかわからないという事態は、生命にとってはある意味で「危機」であり、ある意味では「可能性」なのだろうと思います。すんごく平たくいうと、いつ何が起こるかわからない、こうなったらこうなるはずだという目論見がはずれるかもしれないということは、不安定だし怖いことだけれど、同時に、何がどうなるかわからない、こうなったのにこうならなかった、ということは、希望・期待・面白さでもあるような気がします。あまりにも楽観的な言い回しではありますが。なお、私なりに平たく言ってみた言い回しであり、郡司さんが言わんとされていることとはちょっとずれているかもしれません。

 そんなふうに、存在が絶えず解体・起源する生成として捉えられる(脱構築として捉えられる)ことが核心となるような描像を、郡司さんは描像Aと名づけ、これはプリゴージンの散逸構造を徹底させ、システム論が内側との対でしか理解しない外とは異なる、本当の外部を、現象の基礎に据えるものであるとしています。この描像Aこそポスト複雑系の最右翼となるとも書いていますが、いま左/右が出てくると個人的にややこしいよ〜〜(^^;

 果たして、ジル・ドゥルーズの生命哲学は、描像Aを指し示すものだった。しかし、それは自然科学の文脈で、十分理解されているだろうか。
 (p.77)

(つづく)
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