TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「内在論の哲学」と『カヴァイエス研究』

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションを読んでいます。

 話が前後しますが、前回の「免疫」(イムニタス)と「共同体」(コムニタス)よりも少し前に、「ゾーエー」という言葉と「ビオス」という言葉が出てきます。「ゾーエー」というのは、「剥き出しの生」ないしは動物的な生を意味するギリシア語であり、「ビオス」というのは社会的な生を意味する言葉であるようです。

 エスポジトはこの「ビオス」のほうをタイトルに選んでいて、それはきわめて象徴的なことである、と岡田さんは書いておられます。アガンベンは、ビオスをゾーエーへと畳み込もうとするプロセスのうちに生政治の闇を見たのだけれど、エスポジトは、ゾーエーはビオスの内的な差異とみなされるべきと考えたらしく。

 そうしてこのあと、近藤和敬『カヴァイエス研究』のあとがきで引用されていた例の言葉()が出てくるのです。
 ごく最近のインタヴューでも、内在論の伝統に依拠しつつ、以下のように明言されている。「いまや政治と生とのあいだに決定されるのは、相互に錯綜した内在的な関係であって、これは、かたちは異なるとはいえカントからハイデガーにいたる超越論的な哲学を通してはもはや解釈不可能なものです。そうではなくて、不連続的で断片的であるとはいえ、スピノザからニーチェを結びつける、まさしく内在論の哲学によって解釈されるのです」
  (『近代政治の脱構築』p.13〜14)

 近藤さんはご自身の立場を、「内在論の哲学」と言われる一連の思想家たちの立場と共鳴するものであるとしていますが、この「内在論の哲学」がもつべき真理の概念とはどういうものなのか、そして内在論の真理を把握する知とはどのようなものでありうるのかということが、まさに『カヴァイエス研究』の全体を貫いている直接の問題意識なのではないか、というわけです。

 そのような真理の概念とはどういうものであるか。
超越的な客体を根拠とするのでもなく、また超越論的な主体をその基礎とするのでもなく、それら双方を一時的で歴史的なものでしかないものに変換しながら、同時にそれら客体と主体の動的な再編成を要求するそういった歴史的生成を本質とするものであるだろう
  (『カヴァイエス研究』p.261)

 そして「内在論の哲学」のための真理の概念についての考察で、なぜ数学という題材が選ばれなければならなかったのかということについても論じてあるのですが、これについてはいずれゆっくり考えることにして先に進むと、終盤に向けて教育の話へと入っていきます。
 このような「内在論の哲学」がもたらすあたらしい真理の概念は、それと対になっている知そのものの概念もまた変えずにはおかない。このような真理を把握しようとする「内在論の哲学」における知とは、普通に想像されるような意味でなにかを計算できることでもなければ、なにかをよく覚えていることでもなく、あるいはなにかをうまく説明できることでもないだろう。むしろそれは、既成の知の安全地帯のそとで問いを立てることができるという力のことだと言わねばならない。(中略)「内在論の哲学」における教育とは、同一の結果を生み出すことのできるなにものかを訓育するものではなく、現在の不可能性を問いとして直視することに耐えつつ、それを解決可能な問題へと粘り強くつくりかえていく歴史的ポイエーシスを支え助けるものでなければならない。
  (『カヴァイエス研究』p.262〜263)

 近藤さんはこのあと、大学制度、科学研究という言葉を出されていますが、もちろん上記のことは、小・中・高校の教育を含む教育全般について言えることだと思います。

 先日はスピノザ、三数法、わかるということ、合理主義者というエントリを書きましたが、なんだか最近、(教育に関連した)勇気をもらえる本・言葉に出会えてうれしいです(私は教師でも教育者でもないので、教育するものとしての実践の勇気というわけではないのですが・・・)。ちょっと品のない言い回しではありますが、「哲学って使えるなぁ」としみじみ感じるきょうこのごろ(^^)。

(つづく)
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