TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< フーコーが開き、アガンベンとネグリによって正反対の方向に分裂されてしまった問い | main | 「内在論の哲学」と『カヴァイエス研究』 >>

「免疫」(イムニタス)と「共同体」(コムニタス)

 『近代政治の脱構築』(ロベルト・エスポジト著/岡田温司訳)の訳者によるイントロダクションを読んでいます。

 あらためて「免疫」という言葉をながめてみると、これは「疫を免れる」と書くのですよね。言葉の成り立ちにもどると、時として新しい視点を得られることがあります。エスポジトは、「免疫」を語源にさかのぼって考えることで、それを「共同体」に結びつけることをしたらしいのです。

 「免疫」というのは、ラテン語の「イムニタス」を語源にもち、これはもともと司法にかかわる語だそうで、「義務から免れていること」「職務から解放されていること」「税を免除されていること」といったような意味があるのだとか。「ムヌス」が「義務」や「責任」や「贈り物」の意味で、これに打ち消しを表す接頭辞「イン」がついて、イムニタス。

 これにたいして、「コムニタス」は、「ムヌス」と「ともに(クム)」あることを意味し、それが「共同体」の語源となったということらしいのです。
つまり、共同体と免疫とは、同じ「ムヌス」をはさんで、一方は他者への義務を負うこと、外部へと開かれることを含意するのにたいして、他方はそれから免除され、自己を閉ざそうとする傾向をはらむといった具合に、ちょうど正反対の関係にあるのである。
  (p.15〜16)

 「免疫」のことについては、以前から興味がありましたが、「共同体」についてはあまり考えてきませんでした。というか、避けるともなく避けていたというか、考えようとしていなかったかもしれません。何しろ「共同体」ときいてすぐに思い浮かぶのがPTA(笑)。「共同体」とは言わずに、「地域」あるいは「コミュニティ」というと、がぜん身近な問題になってきます。大震災の経験が、さらにそれを感じさせるものになってきているように思います。実はこのあと、ホッブズのリヴァイアサンが出てくるので、つい川端裕人さんを思い出し、ますますPTAのことを思い出してしまうのかもしれまんが、PTAそのものが共同体というよりは、PTA活動を通して、学校が地域と切り離しては考えられないことを感じるようになり、それを含めてのコミュニティという感じです。ちなみいまは、PTAにCommunityを加えたPTCAという名称もあるようです。

 エスポジトは、「個を放棄し、主体を横切り変化させるものへと向かうこと、感染と傷にさらされること、それこそが共同体の本義なのだ。固有なものなど何もないということ、このパラドクスこそ、共同体のメンバーが共有するものである」というようなことを言っているらしいです。

 その次の一節でリヴァイアサンが出てきます。エスポジトは、近代化とは免疫化、もっと限定するなら、自己免疫化を推し進めてきた過程のことにほかならない、主権や代表、自由や所有など、近代が練り上げてきた政治哲学の概念のうちには、基本的に、個人や国家をその外部から守ると同時に、自己の内部の葛藤を中和化しようとする自己免疫化のメカニズムが働いている、と指摘しているらしいのですが、その先駆けとして、ホッブズのリヴァイアサン国家、ロックの所有権、ルソーの自由などがあげられているのでした(ちょうどいまTATA-STYLEのほうで、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』第四章を読んでいる最中なのですが、こちらにもホッブズとルソーが出てきています)。
 
 このあと「免疫化の功罪」の話が新型インフルエンザなども例にとりつつ続けられていくのですが、次の一文に私はドキリとしました。
いまや、リスクが免疫を要請しているというよりも、免疫と自己保全への願望がリスクの感覚を煽っている、そういう時代にわたしたちは突入しているのである
  (p.18)

 このことについては本文のp.158に書いてあるようなので、該当部分をのぞいてみると、保険会社がしているように、リスクをコントロールできるようにするために、リスクが人工的に作りだされる話や、「自己免疫疾患」という言葉などが出てきています。私自身の免疫への興味は、身内の膠原病に端を発しているのですが、まさにこの膠原病は自己免疫疾患との関係が深いものだと思います。また、ここから自己と他者、「わたしとは何者であるか」という問い、そして自己と他者をへだてる境い目への興味へとつながっていったのだろうと思っています。ついでに本文中のこのセクションの冒頭をのぞいてみると、「わたしちの生を守るために必要な免疫は、ある閾の向こう側へ越えていくと、生の否定に行きつくということである」(p.156)なんてことも書いてあります。

 近年、エスポジトだけではなく、二クラス・ルーマン、ダイアナ・ハラウェイ、ペーター・スローターダイクらも免疫に注目しているらしいのですが、彼らとエスポジトが決定的に異なるのは、免疫化社会のユートピア的な夢想を断固として退けている点である、と岡田さんは書いておられます。

 その意味では、ジャック・デリダとの共通性を指摘することはできるけれども、デリダが指摘するグローバルな自己免疫化の危機は、生政治というよりはむしろ宗教と科学技術に関するものであり、エスポジトは生政治の舞台の中心に免疫化という概念をすえているところが独創的だ、ということのようです。
この観点からすると、ナチズムは、完璧なる自己免疫化への志向が、自己と他者との完璧なる破壊という事態を招いてしまった生政治にほかならない。言い換えるなら、生政治が死政治へと転倒するとすれば、それは、「イムニタス」という装置が究極的なかたちでそこに介入するからなのであって、アガンベン的な黙示録によるわけではないということだ。自己の固有性や純粋性にしがみつこうとする共同体は、免疫化を発動させるとき、まさしく共同体そのものの死へと行き着くのである。

  (p.19)

(つづく)

哲学・思想・科学論 | permalink
  

サイト内検索