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数学と数学教育
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あとで考えたいことの整理(合理主義と経験主義、ハイデッガーとスピノザ)

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』「第一章 暇と退屈の原理論」に、興味深いことが書いてありました。水と油であるところのラッセルとハイデッガーが、「暇と退屈」に関連して、同じ時期に同じ指摘をしているという話です。その内容とは、食と住を確保できるだけの収入と、日常の身体活動ができるほどの健康をもち合わせている人たちの不幸、いわば日常的な不幸の話(p.51〜52)。

 「実はこの符合は、ハイデッガーとラッセルのことを知っている者にとっては少々驚きの事実である」として、この2人が政治的にも哲学的にも犬猿の仲であることが簡単に説明されています。ハイデッガーは20世紀の大陸系哲学を代表する哲学者であり、ラッセルは20世紀の英米系分析哲学を代表する哲学者であることと、これら2つの傾向はいまに至るまで対立し続けているということ。また、ハイデッガーはナチズムに加担したことでもその名を知られているけれども、ラッセルは反ファシズム運動の活動家でもあったこと。

 大陸系哲学ときくと、いわゆる大陸合理主義のことを思い浮かべるのですが、同じものと考えてもいいのでしょうか? むかし、初めて大陸合理主義という言葉をきいたときには意味がわかりませんでした。はじめてきくのだからわからなくてあたりまえなのですが、「大陸」の文字がつくことから、地理的、地学的な話なのかしらん?と思ったくらい。 これってたぶん、ヨーロッパ大陸のことをさしているのですね。

 英米系分析哲学のほうは、いわゆる経験論方向のことだと考えていいのでしょうか。こちらも、いまだからこそ経験という言葉を使うことの抵抗が以前よりは減りましたが、やっぱりなんだか不思議な感じがします(>「論理実証主義」と「経験主義」と「ウィーン学団」)。(もっといえば、ウィーンってヨーロッパ大陸のなかにあると思うんだけど・・・ だからこそあえてウィーン学団とよばれたのだろうか?) このへん、基本的な哲学史の流れが全然わかっていないので、いつかもうちょっと勉強したいです。

 ほんでもって、偶然か必然か!?(去年書いたエントリの訂正>「じんぶんや」)において、「スピノザの案内役にハイデッガーが選ばれていることが、意外」と書きましたが、あの場合はスピノザの案内役というより、選んだ本全体の案内役なのかもしれませんね。なぜ私が意外に思ったかというと、ちょうどそのころ、岩井寛『森田療法』における西欧と東洋の比較について考えており()、現象対峙的な西欧的の「ある」としてハイデッガーの名が出されていて、スピノザの「ある」は神と私を対峙させてはいないので、ハイデッガーの流れのなかにスピノザは入っていないと思ったからです。

 さらに、現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在とで引用した部分では、ハイデッガーとスピノザが、超越と内在という形で対立したものとして扱われています。ここんとこどう考えればいいのだろう?と思っていたわけなのですが、前回のエントリで示したように、國分功一郎『スピノザの方法』において、スピノザは合理主義者であるが、いわゆる合理主義と一線を画していると書いてあったので、ようやくほんの少しヒントがつかめてきたかもしれないと感じているところ。

 それにしても、最近考えることは・・・って、最近じゃなくてずっとそうなのですが、「わかる」ということの意味です。『暇と退屈の倫理学』でも最後の結論でスピノザが出てきていて、人は何かがわかったとき、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する、ということについて書かれてあります。これ、ほんとそのまま、教育の基本の話だと思う。國分功一郎さんは大学の先生であり、それはつまり教育者ということでもあるので、日々このようなことを頭において、教育をされているのだと思います。

 また、郡司ペギオ-幸夫の印象について思うことの現段階のメモの最後で、「自分の頭で考えて、頭の後ろがキリキリ捻じれて、捻じ切れた途端に、あぁそうかとわかる快楽を知っている人には是非お勧めしたい一品」という近藤和敬さんの言葉を抜き出しましたが、ここにも、わかることの意味が書かれてあります。

 さらに、前回のエントリでご紹介した『暇と退屈の倫理学』に対する論評は、「ドストエフスキーはわかりづらい。そして、それでいいのである」と締められています。
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/20111216

 教育で大切なのは、“正しい”とされている概念を“わかりやすく”教えることではなく、「わからない」ということは始まりだということを知ること、そして、わからないことと向きあって、自分の道筋でわかる喜びを知ること、わかるということはそういうことだということを知ることの経験ができる場を作ることではないかと思っています。
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