TETRA'S MATH

数学と数学教育
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スピノザ、三数法、わかるということ、合理主義者

 上野修『スピノザの世界』にひととおり目を通して感動したとき、國分功一郎『スピノザの方法』のあるフレーズがにわかに気になりだしたと書きました。気になった2つのうちの1つは覚えていたのですが、本文のなかにあるはずのもう一方がドンピシャリの形で見つからず、「これだったっけ? これだったっけ?」と思いながら第2部、第3部をのぞいていました。

 私のイメージでは、「スピノザはおうちの中にいる」というような雰囲気のフレーズでした。もちろん、こんな言葉じゃなかったのですが。

 ほんでもって、前々回のエントリでは、上野修『スピノザの世界』をガイドにして「並行論」のさわりをちょっとのぞき、また、前回のエントリのようなイメージも私の中にすでにわいていて、その間をうめるためには、まず「観念の観念」を理解せねばならず、秩序と連結をおさえねばならないと思っているのですが、秩序と連結はともかく、「観念の観念」がどうもいまいちピンとこなくて立ち止まってしまっていたのです。

 ここはひとつ國分功一郎『スピノザの方法』の第1部にもどってみようじゃないかということで、最初の部分のページをめくりました。そうしたら、これまででいちばん「あ! たぶんここだった」と思えるフレーズに再会したのです。
デカルトにとって真理は論駁する力、説得する力をもつ強い真理でなければならない。これはデカルトが徹頭徹尾他者に向かっていたことを意味する。デカルトの考える真理には、他者がつねに陰を落としている。
 それに対し、スピノザは、自分がデカルトのように問い詰められるかもしれないことなど気にもとめず、「いや、何事かを知っている者は、自分が何事かを知っていることを知っている」と述べているわけである。
  (國分功一郎『スピノザの方法』p.47/斜体は傍点付き)

 何事かを知っている者は、自分が何事かを知っていることを知っている。

 Amazonのレビューにあった「スピノザが禅僧にもみえてくる」というコメントが、「神」の在り方としてよりも「わかるということ」という意味合いにおいて、いまとなっては同意できます。たぶん、悟りとはなんぞやということは、悟った人にしかわからないのではないか、と。逆にいえば、悟れば、悟りとは何かがわかる。悟りとは何かがわかるためには、悟るしかない。悟っていない人に、悟りとは何かを知らしめることはできない。

 そういえばおじちゃんも言ってましたっけ。わかるときには、自分ではっきりわかる、と。

 ほんでもって。

 実は、スピノザを読み始めたばかりのときには頭の片隅にあったのに、読み進むにつれて忘れていたことがあったことを、國分功一郎『スピノザの方法』の「結論」を読んで思い出したのです。それはなにかというと、遠山啓著作集『量とはなにか―機戞p.111〜112)で、スピノザの名前が出てきていたこと。比例を解く3つの方法のうちの三数法の話にて(>中世ヨーロッパの商人にとっての「比例式」)。まさにこの三数法の話が、『スピノザの方法』の「結論 スピノザの方法からスピノザの教育へ」に出てくるのです。タイトルからわかるように、結論には「スピノザの方法は教育になる」ことが書かれてあり、その教育とはどういうものかというと、「教師はみずからの消滅をめざして活動する」ような教育のことなのです。

 小島寛之さんは、遠山啓の数学教育論の重要なポイントとして、「数学の自律性」をあげました()。しかし、スピノザの方法であるところの教育においては、各々の「精神」が自動機械として作動するようなのです。ということを理解するには、やはりスピノザのいう「精神」とはなんぞや、ということを深く理解する必要があるでしょう。

 スピノザは合理主義者と言われており、実際にそうである。精神の本性と法則が存在すると言い、しかもそれを認識しなければならないと説くところはまさに合理主義者そのものである。だが、そうした精神の本性と法則はあらかじめ与えられることはできないと考える点において、スピノザの哲学はいわゆる合理主義と一線を画していると言わねばならない。
  (p.353〜354)

 ああ・・・ いい人(スピノザのこと)を紹介してもらいました。ありがとう>近藤和敬さん、Fumibaさん、上野修さん、國分功一郎さん

 私のなかの実在論と反実在論のねじれ()を解消する(あるいは覆す)ひとつのヒントがここにあるのかもしれない。

 カヴァイエスにもどるのが楽しみ(^^)
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