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数学と数学教育
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森ダイアグラムの考察から派生した、いつか考えたいことのメモ/ディメンジョン、比例の循環論法、カリキュラム

 森ダイアグラムについて、そのおおよその意味と、枝分かれするまんなかの部分の「微積分」「線型代数」のイメージについてちょっと見ていきました。このあとは「ベクトル解析」ですが、さすがにいまは“なんとなく”のイメージをつかむことも難しいので、いずれまた機会がきたら考えたいと思っています。でも、微積分という「局所化」と、線型代数という「多次元化」についてはなんとなくわかってきたので、それを統合して多次元量の微分積分を考えるんだな、ということは想像することができます。

 それで、この先、まだまだ考えたいことはあるのですが、ひとまずここで一段落させることにして、いつか考えたいことのメモだけ書いておきます。



 まず、ディメンジョンについて。森毅は(1/1行列)×(1/1行列)=(1/1行列)まで語ったあと、

  どちらも,ディメンジョンになっているところが,うまくいっとるではないか.

とコメントしているのです(『線型代数―生態と意味』p.25)。この一文の意味がわからないのです。「どちらも」が何をさしているのかということと、「ディメンジョン」という言葉の意味が。

 そういえば、遠山啓が「度」と「率」を区別し、「度」のほうを先に学ばせたほうがよいと考えた理由(のひとつ?)は、率にはディメンジョンがないから、というものでした。思えばあのとき、ディメンジョンについてちゃんと考えなかったというか、「まあ、なんとなくこういうことだろう」くらいのことで終わらせてしまっていました。

 でも、前回出てきた「b円×a=c円」のaって、たぶん「倍」のことだと思うし、どっちにしろスカラーで、結局「1/1行列」で表されて、「ディメンジョンになっている」と言われると、うーん・・・と考えこんでしまうのでした。



 それから、銀林浩『量の世界・構造主義的分析』のこと。むかしよりは内包量を二重構造で考える意味正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量がわかるようになったかな?と思って読み返してみたのですが、今回はそこについてよりも、緑表紙(第4期国定教科書>)の比例の扱い方への批判に目が向かいました。

 緑表紙では、円周率の公式と速さの公式で比例を導入しているようなのです(『量の世界・構造主義的分析』p.152〜153)。銀林先生は、この進め方は「論点先取の誤り」をおかしていると指摘しています。思うに、円周の長さが直径に比例することが先なのか、円周率が先なのかと考えてみた場合、やはりこの場合は比例関係が先かなぁ、と思うわけであり。このあたりについても、いずれゆっくり考えたいです。



 そして今回もっとも気になったのは、瀬山先生の本や森先生の本を読んでいると、「ほら、数学って算数とつながっているよ」あるいは、「算数って、その先の数学にずっとつながっているよ」ということはわかるのだけれど、「つなげられたのか」「だれがつなげたのか」「つなげようとしているのか」ということは、これらの本ではわからないということです。

 森毅『線型代数―生態と意味』は大学のカリキュラムの形成の話から始まっていて、18世紀や19世紀の数学、その歴史の文脈にも触れられていて面白いのですが、現代の小学校の算数がどういう経緯でつくられてきたかを知ることはできません。何しろあれから30年以上たっているのであり。もうちょっと、カリキュラムの変遷や教科書の変遷について知っておかないと、自分の考えたいことは考えられないのかもしれないな、と思うことでありました。

 実は、先日メールをいただいた方からは、アメリカの指導要領の話も少しうかがうことができたのですが、そのちょっと前に、別の方とイギリスのナショナル・カリキュラムの話をしていたところでした。

 なお、ナショナル・カリキュラムについては、『時代は動く!どうする算数・数学教育』汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】(国土社/1999年)において、波多野誼余夫がインタビューで次のように語っています。

 しかし,指導要領を小・中学校もすべて廃止することはいまの段階ではできないと思いますね。いま,アメリカでもナショナル・カリキュラムというのをつくろうという動きが出てきているくらいで,やはり,なんらか意味で「こういう内容はカバーしたほうがいい」ということは必要なんですよね。小学校では比較的はっきりしていて,高校になったらいらなくなるという性質のものではないかな。文部省がすぐそうするとは思えないけれど,少なくとも縛りを緩やかにしていくということが,文部省が望んでいるような多様な実践を実現するための前提条件だと思います。そういうことを実現していくことがまず必要だと思います。

(p.143)

 
 また、上記引用部分の少し前で、井上正允先生が

 文部省非検定教科書というのをつくったらいいいと思うんですよね。文部省の指導要領によらないけれど,「数学ってこんな世界もあるよ。こういう学び方もできるよ」というのを民間が示していかなければいけない。

とおっしゃっていて、それをうけて波多野氏は、

 いまだと,文部省が「これもなかなかいいですよ」などと言うかもしれません。たしかに,いま一時的には教員のほうが「保守的」で文部省のほうが「革新的」で,という逆転現象が起こっていると思います。けれど,それは,過去の文部省の政策のツケなんですから。そこはよくよく反省してもらって,このつぎまた文部省主導でなにかやろうなどと思わないことがすごく重要です。

とも語っています(p.142)。最後の一文は、「文科省主導、検定教科書主導で、なにかやってもらおうと思わないことが重要」と言い換えることができるのかもしれません。

 実は、「管理する」という発想(あるいは教育についてのナショナリズム的発想)は、もしかすると「管理する(とされる)側」にあるのではなく、「管理される(とされる)側」にあるのかもしれないなぁ・・・というようなことも考えることがあります。このあたりについても、機会があったら、いずれゆっくり考えたいです。

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