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数学と数学教育
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山口昌哉 『数学がわかるということ』・4/微分方程式のこと

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』の§2を読んでいます。

 そんなこんなで、もう他人のつくった定理にたよることができなくなった山口昌哉先生は、 何とか自分で解答をさがさなくてはいけなくなりました。作業としては、平面上で、ある微分方程式の解を表す曲線を適当な形の別の閉じた曲線で「囲む」ということをする必要があったのだそうです。いくつかの線分や曲線の一部分をつなぎあわせていくのだけれど、だいたい囲めたぞと思ってよろこぶと、水が洩れるように最後のところでそとにとび出してしまう。という作業を40日ほど、毎晩毎晩、失敗失敗の連続でくりかえして、幸運にも成功した、というエピソードです。

 なお、微分方程式について、山口先生は水槽に水を入れてぐるぐるかきまわしたときのおもちゃの舟の動きでわかりやすく説明しておられます。

------ 水槽の水を手でかきまわすと、いくつかの渦ができ、表面の各点には水の流れの速度ベクトルが考えられる。こういうふうに平面の各点にベクトルを考えたものを“ベクトル場”という。微分方程式とは、このベクトル場をあらわす式であり、そして“微分方程式の解”というのは、この平面上の1つの曲線であらわされるだけではなく、その上の各点での接線がはじめにあたえたベクトルと一致している。つまり、かきまわした水槽の表面でいえば、その1点に小さな舟のおもちゃを落としたとき、それが流れていくあとをたどった曲線がこのベクトル場をあらわす微分方程式の解の曲線である。(引用ではなく要約)------

 私は微分方程式ときくと、遠山啓の「量の理論」を思い出すのです。著作集の数学教育論シリーズ6『量とはなにか−供戮法1966年初出の「微分方程式」という文章が収められており、遠山啓は、これまで微分積分というと微分方程式はふくまれていなかったが、ここではこれまでの常識を破って微分方程式のことをあつかうことにする、というふうに話を始めています。微分と積分はどちらかというと、主として、すでにきまっている曲線の接線を求めたり、面積や長さを求めたりすることを学ぶことになっていて、一つの計算術と考えられているが、微分方程式となると視点が大きく変わってくる、そこにはもはやたんなる計算術ではなくなり、未知の法則の発見という広大な世界が開けてくる、と。

 そして、風の流れや海流の方向の話が出され、具体的な式としてはまず同心円の例が出てきます。 点(x,y)において与えられる方向の勾配をf(x,y)で表すと、これが、その点を通る流れの曲線y=φ(x)の接線の勾配dy/dxと一致するから、dy/dx=f(x,y)という方程式を満足するはずであり、方向の場はこの式よって与えられるとみてよい、と。点(x,y)における方向は、点(0,0)と結ぶ直線の勾配y/xと垂直であるから、f(x,y)=−x/yとなるはず。つまり、方向の場は、dy/dx=−x/yという方程式によって与えられている。

 同心円は x^2+y^2=r^2 という形に書けるわけですが(rをいろいろにかえると、大小さまざまな同心円が得られる)、この同心円がdy/dx=−x/yという方程式を満足することは計算でたしかめられるとして、両辺をxで微分したときの式が示されています。→2x+2y dy/dx =0、dy/dx=−x/y

 「同じ方程式であっても、代数方程式では求められているものは未知の数であるが、微分方程式では求められているのは数ではなく,未知の関数である」と遠山啓。少し前に、外延と内包を円の定義で考えましたが(>円の外延的定義と内包的定義)、ここに微分方程式をからませると、また円の見え方が変わってきて面白いです。

 なお、『量とはなにか−供戮里△箸きは増島高敬先生が書いておられて、そのなかにある微分方程式についての山口昌哉先生のエピソードが印象深かった私です。山口先生は高校生を対象にして、“現在こうで(初期条件)”、“このままいくと”(微分方程式)、“やがてこうなる”(解)というふうに公開授業を行ったことがあるのだとか。そういえば山口先生が遠山啓なきあとに、「遠山先生にいまの自分の研究を見てほしかった」と書いていたのがどの本のどこの部分だったか、いまだ見つけられず・・・。なお、『量とはなにか−供拏体は1981年初版。また、『数学がわかるということ』のおおもとの本は1985年に出ていて、山口先生は10年かかってこの本を書かれたようなので、1975年頃から執筆がなされたのでしょう。

 ほんでもって・・・・・・

 またまた寄り道していいですか?(^^;

 いま手元に、実践!「元気禅」のすすめ」という本があるのですが、このなかに「禅僧はなぜ○を描くのか」というコラムがあり、○の意味はひとまずおいとくとして、実際に描いてみると感じられであろうことの記述が面白かったです。○というのは筆を置いた瞬間から一瞬たりとも惰性では進めない、「思」という停滞を抱えてしまうと○にならない、絶えず変化しつづけるから気が抜けない、いわば流動そのもの、「空」と言ってもいいだろう、という内容。「一瞬たりとも惰性では進めない」「停滞を抱えてしまうと○にならない」「絶えず変化しつづける」ということは、全部数学で表現できそうだと思いました。

 また、変化し続けるその変化を記述するには変化しない何かが必要であり、その変化しない何かの設定しだいでは、○というのはとてもシンプルな---ある意味で変化がない---形であるとも言えるのかもしれません。さらに身体感覚でいえば、黒板にフリーハンドで円を描くときと、運動場に円形のラインをひくときとでは違いがあるでしょうね。水槽の表面を動く小舟を少し遠くから見ている私と、小舟に乗っている私とでは、円の意味が違ってくるだろう。

 そしてもう1つ面白かったのは、このコラムの著者である玄侑宗久さんの姪っ子さんが、小学校低学年のころ、宗久さんと宗久さんのおとうさんが書いた卒塔婆を百発百中で見分けたというエピソード。漢字はまだほとんど読めず、実際二人の文字は区別できなかったのだけれど、その頭に描いた○だけで見分けていたという話。それほどに、○には人間が滲み出る、と。なるほどねぇ。

 腕で書く場合も、チョークで描くか、筆で描くかでも違ってくるでしょうし、黒板という垂直面に描くか、机や床に置いた紙の上、つまり水平面に描くかでも身体感覚は変わってくるでしょうね。そういえばかつてこんなことも考えたことがあったっけ。>「円」を描くとき・書くとき

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