TETRA'S MATH

数学と数学教育
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山口昌哉 『数学がわかるということ』・2/何かがわかる瞬間

 山口昌哉『数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学 (ちくま学芸文庫)』を読んでいます。

 §2の冒頭で、山口先生はまず、ある数学者(たぶん岡潔)のエピソードを示しています。どういうエピソードかというと、数学の試験の話。

 よくよく準備して受けに行って、試験の部屋に入り、問題を見て、「アッ! これはできるぞ」と思い、一生懸命答案を書き、よく注意して1つ1つ確かめながら、今までに習ったやり方や方法をつかって書きおえる。これで今日のテストは満点にちがいないと思って試験の部屋を出て、しばらく歩いて部屋から遠ざかったところで、今書いたばかりの答案を頭に描いているうちに、「アッ! しまった」と1つの問題について、答えの誤りに気がつく。この瞬間こそ、その問題そのものと、それにつかった方法の原理が“わかった”、はっきり“わかった”という瞬間なのだ、という話。

 山口先生はこのあとご自分の経験を書いておられて、こちらはこちらで興味深いのですが、この話の流れだと、岡潔(と思われる)のエピソードの意味が、ちょっとぼやけてしまうな・・・と私は感じました。ちなみに、上記のエピソードは数学者が学生たちに語ったものだとして、紹介されています。

 山口先生がこのあとどんな話を続けているかについては次のエントリで書きますが、先に、私の思う岡潔の上記のエピソードの核心を書いておきますれば、この話のポイントは、間違いに気づいたのが「教室を出たあと」だったところにあるのではないかということです。

私が中学生のころ、数学の試験は答案を書き終ってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめた上に確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。(中略)教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。

   (『春宵十話』光文社文庫2006年/p156〜157)

 岡潔も言っているように、このようなことは大抵の人が経験していることではないでしょうか。印刷物が完成したあとで校正ミスがみつかり、「あんなに見たのになんで?」と思いながらシールを貼る悲しい作業をすることになったり…(いや、聞いた話よん^^;)、ブログの記事を投稿したとたん、下書きを何度も読み直すあいだは気づかなかった間違いに気づいたり。自分の話でいえば、かけ算における「ハタラキ」という言葉の整理が必要なことを「買い物の帰りがけ」に気づいたのが、これと同じような経験になるかと思います。
 
 上記の話はポアンカレの「調和」の話から始まり、大脳前頭葉の鍛錬の話とからめながら進められていくのですが、前頭葉はおいとくとしても、熱してばかりじゃだめなんだよ、冷やすことも大事なんだよ、ということはよくわかるような気がします。もちろん、熱することも必要であり。なお、岡潔は「無差別智」という言葉も使っています。意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かない。この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力である。自分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくる。

これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。

(つづく)
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