TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「解けない問い」

 久しぶりに近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を手にしています。過去の自分のエントリをちょっと読み直してみて思ったことは、「けっこう時間かけて読んでいたんだなぁ、時間をかけて読むとわかることもあれば、ある程度の勢いでもってして読むとわかることもあるな」ということです。

 というのも、下読みのつもりで第4章をざざざっとめくったときに、「ああ、自律性ってそういうことか」とストンと腑に落ちる感触があったからです。かつてこの言葉に対してショックを受けたことがあったけれど(>「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考)、別にショックをうけるようなことではないぞ、と。あたりまえの話にさえ思えてくる。そのときに手がかりとなる言葉が個人的には「内在」であり、野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきに触発されて考えた「内側から膨らんでくるイメージ」です。

 で、第4章の最後のほうで「解けない問い」という言葉が出てくるのですが(檜垣立哉氏のドゥルーズに関する文献から借りてきた用語とのこと)、この言葉が上記の“ストン”にかなり役立ちました。

 思えば算数や数学の教科書・問題集に載っているのって、全部、「問題」ではないのですよね。あれは「解」の前半なのだ。「6×4」という計算問題は、「6×4=24」の前半部分を示しただけにすぎないのだ。だから先生は採点ができるし、○か×をつけることができる。

 数学の素朴な実在論が見落としてしまうのは、この「問題」という奇妙にも存在論的な審級である。「問題」は、意味論的には実在するとは言えない。その「問題」によってあらわされている内容について、それが「真」か「偽」のいずれであるかが、その「解」が提示される以前から決定されているのだとすれば、それは真に「問題」ではないだろうからである。「問題」とは、原理的に、解かれていないからこそ「問題」であるはずだ。解かれた「問題」は、「問題」ではなく「解」と呼ばれ、「問題」からはっきりと区別されなければならない。

(p.144/9〜16行)

 

「解けない問い」は、意味論的(真偽値的)には「不定」であり、存在論的には「潜在的」である。これにたいして、解かれた問い、あるいは解ける問いの存在のモードは、「現実的」であり、意味論的には「真か偽か」である。

(p.145)

 そして近藤さんはこう続けます。

 

 ここに、ある種の特異な時制が入りこんでいることがみてとられる。

 いまだ解かれていない問題と、すでに解かれた問題のあいだにある順序。しかしこれは本当に時制なのか? すくなくともそれは私たちの日常的な時間ではない。なぜならそこには、「いま・ここ」的なものがないから。数学的真理はつねにどの「いま・ここ」でも真理であるのだから「どこでもない」ものでしかない。

 では、この「時間」を進めるものはないかというと、「証明」のポテンシャルの増大という言葉で説明がされています。このことについてはあとでまた考えるとして、p.144にもどりますれば、上記引用部の直前に、こんなことが書いてあるのですよ〜!

 

この意味で、「数学的経験」は、本質的には「他者」の経験にほかならない。

(p.144/7〜8行)

 もうショックは受けないよ! 面白いねぇ。

近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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