TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「公式」は“悪”で、「図式」は“善”か?(1)/数教協のシェーマ

 以前も書いたように、数教協が「失敗したな・・・」と私が思うのは、「シェーマ」という言葉に頼りすぎたことです。単なる「教具」と言っておけばよかったのに、「シェーマ」というとなにか意味深長なありがたいものに思えたのでしょう。実際、遠山啓は「教具」の意味で「シェーマ」という言葉を使っていたわけではないのですが、結果的に、それは「タイル」であり、「水槽」であり、「ブラックボックス」であり、早い話が「教具」に終わったのだろうと思います。
 
 「タイル」についていえば、佐伯氏も言っているように、くりあがり、くりさがりのあるたし算、ひき算までは、とても役に立ってくれると思います。でも、子どもによっては硬貨や紙幣のほうがわかりやすいかもしれないし、絶対にタイルでなきゃダメということはもちろんなく、「こういうのもあるよ〜」くらいの話だと思う。

 さらに、加法・減法と乗法・除法をまったく別の演算とみなすならば、「シェーマ」もまったく別のものになるはずであり、乗法・除法をタイル図で考えることはそもそも無理があるのではないでしょうか。タイル図で乗法・除法を理解しようとすると、ある種の翻訳作業を必要とし、とても抽象的な作業になるように思います。もちろん、タイルがわかりやすい人は、自分はタイルを使えばいいわけであり。

 一方「ブラックボックス」については、もっと奥深いものがあったと私は感じていて、この先もっと突っ込んで考えていきたいと思っています。

 タチがわるかった(?)のが「水槽」です。こちらも、「平均」の学習では、実にあざやかに役立ってくれることでしょう。水槽に等間隔で仕切りを入れておいて、それぞれのスペースにバラバラの量のジュースを入れ、仕切りを上げて水面を平らにしたあと仕切りをもどせば、「平均とは何か」が一目瞭然だと思いますし。だけど、きのうの「度の第一用法」を説明する水槽や、金網で仕切るなどして2つの部分に分けた数教協の比例水槽は、かなり抽象的な“図式”に見えます。

 「水のかさ」というのはいかにも連続量で、しかも水面が平らになってくれるし、おまけに水槽は直方体で正面からみれば長方形になってくれるので、何かと便利だったのだと思いますが、なんだか教える側の都合を感じてしまいます。わからない人がわかるためのものではなく、もうわかっている人が意味づけてわかるものというか。

 さて。

 以前、うわ〜〜〜 というエントリで、『心に広がる楽しい授業 第11巻 比例の考え 正比例・1次関数』(1989年)のことを書きました。あのときには「(遠山啓なきあとの)数教協の先生たち、何やってんのー!?」と思ったわけですが、やはり責任は遠山啓にあると思いなおしました。私は、そうなると話は比例の定義・導入に集約されていくにおいて、「私が認識している遠山啓の「量の理論」でいくならば、比例は小学校の段階から中学校方式で定義・導入しなければならないことになります」と書きましたが、当の遠山啓自身が比例の定義を「xが2倍、3倍、・・・」のほうで定義することを提案していますし、遠山啓は比例を割合と関わりの深いものだとしています。というようなことから、あのような構成になったのだろうと想像しています。

 そして遠山啓は、比例の定義を<量×量>の公式から出発すべきであるという意見を一理あるとしながらも、自分は反対であると述べています(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか−機p.135)。なぜならば、もし<速度×時間=長さ>の公式を出発点とすると、公式を忘れたらいきづまってしまうだろうし、無数にある比例関係の一つ一つに公式がつくられているわけではなく、適用範囲はいちじるしく狭められてしまう、それに比例をはじめて学ぶ小学校6年生に公式をもとにする思考が自由にできるとはとても期待できない、という理由で。それよりも公式の背後にある基本的な思考法をじゅうぶんに定着させるべきであろう、と。

 量の体系にあれこれつっこみたい気持ちをおさえて、そろそろ現代に目を向けてみますと・・・

(つづく)
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