TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ヒルベルトと「可解性」のこと/山口昌哉、林晋とあわせて

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第3章を読んでいます。

 きょうは、ヒルベルトと「可解性」のことについて考えたいと思います。

 「可解性」というのは、漢字で見れば“解くことが可能である性質”と読めますが、はやい話、「解ける」あるいは「答えがある」ということなのでしょう。

 ヒルベルトについて考えるとき思い出すのは、15年くらい前にきいた山口昌哉先生の複雑系のレクチャーです。というわけで、資料を本棚のファイルからひっぱりだしてきました。タイトルは「戦後50年の数学は何をもたらし,未来に何を期待されるか」となっており、最初にヒルベルトが出てきます。

 ヒルベルトは1900年8月にパリで開かれた世界数学者会議で有名な講演を行いましたが、この講演の要旨は雑誌『アンセイニュマン マテマティク』に掲載されたそうです。で、論文の別刷をヒルベルトが弟子のリチャード・クーラントに与え、さらにそれが、クーラントの弟子であるピーター・ラックス教授から、山口昌哉先生にお誕生日のお祝いとして贈られたそうなのです。

 この講演の内容についての説明として、5つの項目があげられているのですが、このなかの3、4、5番目に注目します。

(3) 数学の問題の解決とはどういうことか?

 その問題自身が含んでいるいくつかの(hypotheses)から、有限回の3段論法の使用のみにより,その正しさを証明することである.

(中略)

(4) どのような方法によって、我々は問題を解くべきか?

 一般化(例えば,代数学におけるイデアールの概念では数や多項式を一般化している).

および
 特殊化である。(中略)

(5) ある問題が解決不能のときはどうするのか?

不可能であることを厳密に3段論法で証明するべきである.

(中略)

 確信(Conviction):数学においては,問題が解けるか,解くことが不可能が証明されるかのいずれかである.
 “数学者は絶対に不可知論Ignorabimusを許してはならない.”
 『カヴァイエス研究』においても、上記のことがらについての詳しい説明があるのですが、近藤さんいわく、「形式主義のプログラムは、19世紀までの数学に比較するとき、ある種のグロテスクな様相を呈する」と。その理由は、とりわけ「可解性」とかかわる、と。

 19世紀においても、代数方程式の根の可解性の定理などが知られており、「可解性」ということ自体は、1つの数学的な「問題」として提示されていたわけですが、ヒルベルトが形式体系の手法によって示そうとしたのは、たんなる一理論の条件つきの領域のなかでの可解性などではなく、ほぼ全数学(あるいは、数学の主要部門である数論、幾何学、解析学、集合論)におよぶあらゆる定理の「可解性」の要求を含んでおり、そのことがグロテスクな印象をあたえる、ということらしいのです。
 まさに、数学の営みの場所が、たんなる記号の論理的変換におきかえられるのかどうか、というところである。つまり、そこでは、「問題」と「解」は完全に等価物となってしまう。数学の「問題」は、つねにすでに、形式体系のうちで人知れず解かれており、その「解」は、形式体系内のどこかに既在なのである。
  (p.102)

 で、ここでもう1つ別の論文をのぞいてみたいと思います。検索で見つけた比較的新しい林晋さんの論文→「真のHilbert 像をもとめて−Hilbert 研究の現状−」(平成22年3月18日)
http://www.shayashi.jp/HistoryOfFOM/tuda2007ver2.pdf

 この論文の12ページめに、「2.2 可解性原理−Hilbert 数学基礎論の原点−」という一節があり、13ページめに次のようなことが書かれてあります。

 たとえば, Paris 講演の哲学的議論の部分で, Hilbert は「一つの数学の問題が解ければ,その問題の代わりに, 多くの新しい問題が生まれる,数学の問題は無尽蔵(unermeβlich)である」という意味の発言をしている.(中略) Hilbert にとって重要なのは解けた問題ではなく,問題を解くこと“suche die Lösung”なのである.Hilbert にとっては,数学者が常に新しい問題に取り組み解決している状態こそが数学の健康な状態なのである.Hilbert はどの時点をとっても数学の問題が無くなるなどという「悲惨な事態」は考えていなかったはずである.
 この論文は「新しいHilbert像」を説明しているもののようですが、上記の内容とカヴァイエスのヒルベルト観をすりあわせていくと、どういうことになるんだろう・・・?と考えこんでいます。数学の「問題」は“人知れず”解かれており、それは形式体系内のどこかに既在であり、「発見されるにすぎないもの」と考えれば辻褄があいそうな気がしますが、生成も進展もせずに既在であれば、数学の問題数自体は有限ということになり、いつかは発見作業が終わるようにも思えてきます。でも、ヒルベルトは、「多くの新しい問題が生まれる」とも言っているようなのです。それは、「生まれる」というより、数学者に見えてくるってことなのかな・・・ だけどその場合、「無尽蔵性」のことはどうなるんだろう・・・
近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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