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数学と数学教育
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見渡せない無限と、見渡している無限を、交錯させる。

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』、「第3章 ヒルベルトの公理的方法と概念の哲学」を読んでいきます。ここもとても面白いよ!

 ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんで書いたように、これまでのカヴァイエスの研究においては、ブラウアーの直観主義とのつながりが軽視されていて、あまりにも多くのことをヒルベルトの形式主義の学説に求めすぎる傾向があったのだそうです。その理由が第3章の最初で具体的に示されています。

 で、近藤さんいわく、カヴァイエスのヒルベルト受容は、「見渡す」ということをどのようにかんがえるかということに深くかかわっているようにおもわれる、と。

 ブラウアーの立場を、「本当は誰も見渡すことなんてできない」という主張だとみなすと、これを裏返すことにより、(「本当は」とか言わなければ)見渡しているという事実は現に存在しているという現実的な立場も可能だということになります。また、「見渡してしまったものは本当の姿ではない」(古典数学は本当の数学ではない)という議論が成り立つとすれば、「本当の姿」かどうかにこだわらないのであれば、現に見渡してしまっている(本当の数学かどういかということをかんがえなければ、現に古典数学は成り立ってしまっている)という議論もまた成り立つ、ということになるわけであり。(こういうふうに考えると、いったいどっちが「ほんとう」にこだわっているかどうかがわからなくなって、面白いです)

 というようなときの「見渡す」ということを、いったいどのようにかんがえるのか?

 「見渡せない」ということを強調する直観主義の無限は「潜在無限」であり、「プロセス」としての無限であり、視点の主観的有限性から導かれる未規定性としての無限でした。一方、「見渡している」ということを強調する古典的な無限は「実無限」であり、「俯瞰」としての無限であり、条件としての客観的絶対性あるいは必然性としての無限です。

 そんなふうに直観主義の無限と古典的な無限は反対概念になっているので、このままでは折り合いをつけることができません。で、カヴァイエスは何をしようとしたのかというと、ここに真理の歴史的生成のプロセスという観点を挟むことによって、「問題」と「解」の弁証論のなかで両者を交錯させようとしたらしいのです。

(つづく)
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