TETRA'S MATH

数学と数学教育
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手元にある真理でもって暗闇にのりだしていく

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいます。

 カヴァイエスによる直観主義のアイデアの批判的継承についてはかなり端折った読み方になっており、特に非可述的定義の数学的役割については何も触れないままになっていますが、第3章のヒルベルトを読んだうえで、またもどってきたいと思っているところです。

 ただし、カヴァイエスがブラウアーの「随意性」を、「問題」を解決し、数学の「証明」の領域を拡張するためにもちいられる「非可述的定義」を含む公理的方法の使用というかたちに制限する、ということはおさえておきたいです。
この「随意性」の制限は、すなわち、数学の生成が「問題」によって制約を受けるということでもある。このような制約が意味をもつことは、まさに直観主義的な真理観、すなわち、「真理はその方法とともにのみあらわれる」という真理基準と一貫している。(中略)真理は、それ自体としては絶対的でありながら、それを部分として含む全体は絶えず生成途上にあるものでしかない。
  (p.79)

 そうなると、カヴァイエスの「潜在無限」は、ブラウアーの「自由選列」のような“生成する無限分岐の無限木”、つまり樹状のイメージで示されるものとはまったく違うものになってくるとして、近藤さんが次のようなイメージを書いておられます。この部分がとても面白かったので、ちょっと長いですが、引用します。 
 まず出発点に、なにか確実な真理がある。その一方で、その真理の範囲ではなく、その真理のそとである未規定な暗闇がひろがっている。その暗闇のなかに、手元にある真理でもってのりだしていき、一歩その真理の領域を拡張する(他方で、かつて見えていた真理にたいしても異なる関係性が生まれてくることもあるだろう)。すると、今度はさきほどまで見えていた暗闇と、よく似てはいるが、まったく異なる(同じであれば、かつての真理でもってどんどん進むことができるだろう)暗闇の相貌が眼前に浮かびあがってくる。しかし、その一方で、真理の領域も確実に増えてはいる。いままでの真理だけでは、そのあらたな暗闇にのりだしていくことはできないかもしれないが、いまはそれにくわえてあらたな真理がいくつか手元にある。それらを使ってさらにもう一歩さきへと進む。すると、ふたたび暗闇のなかに真理の光が照らす大地が見えてくるが、今度は、また見たことのない暗闇がその果てにはひろがっている。したがって、カヴァイエスの「潜在無限」は、「列」の「随意性」ではなく、「問題」と「解」の弁証論のなかで生成する「真理」全体の「予見不可能性」においてこそ、見出されるのである。
  (p.79〜80)

 ここを読んで私が感じたことは、ブラウアーの無限木は「未完」ではあったけれど、どこかシステマティックなところがあるのに対し、上記のイメージで示されるカヴァイエスの「予見不可能性」のほうは、暗闇にのりだす「わたしの意志」のようなものを感じる、ということです。主観と客観、主意と主知のことを思うと、なんだかひっくり返っているようにみえて、面白いです。
近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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