TETRA'S MATH

数学と数学教育
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主観と客観、主意と主知

 久しぶりに、近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読むことにします。

 さて、ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さんで書いたように、カヴァイエスとブラウアーのつながりについてはこれまであまり考えられてこなかったようなのですが、その理由として、「カヴァイエスのテキストの中にブラウアーの直観主義よりも形式主義者らによる古典数学の擁護のほうに肩入れしているとおもわせる箇所があること」、「カヴァイエスの哲学的主張がブラウアーの哲学的主張と対立していること」があげられています。

 後者については、具体的に次の2つの対立点として分析することができる、として話は続きます。すなわち、主観主義(ブラウアー)と客観主義(カヴァイエス)。そして主意主義(ブラウアー)と主知主義(カヴァイエス)。近藤さんいわく、これらの哲学的には古い歴史をもつ対立図式のなかで、ブラウアーとカヴァイエスの関係を理解しようとしてしまうかぎり、彼らのあいだの近さということに目を向けることは難しいだろう、と。なるほどなるほど。

 で、そのあとカヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」の話になっていき、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」という話になっていくのでした。

 ほんでもって、カヴァイエスがブラウアーから受け取らなかったものはなんなのかといえば、例の「意志の作用」です(>)。ブラウアーの「自由選列」の概念は、「意志の作用」という“もっとも数学的ではない”概念設定に全面的に依存している・・・という説明のところに「(ブラウアーにとってはそれこそがもっとも数学的であるのだが)」というかっこ書きがついているのが面白いです。

 つまり、ブラウアーの考え方は、哲学的には主意主義的と言わざるをえないので、主知主義を徹底するカヴァイエスはこれを受けいれることができない、というわけです。

 だからといって、カヴァイエスにとって、直観主義は丸ごと廃棄されるべきものだったかというと、必ずしもそうではなかった。カヴァイエスは、「古典数学と直観主義数学とは相互に独立の建築物ではなく、1つの建築物のなかで重なりあう部分をかなりもっており、そのかぎりで相互排他的なものではない」と考えたようなのです。

(つづく)
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