TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ブラウアーがいうところの数学的観照

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章を読んでいます。ブラウアーの「選列」を理解するために、『カヴァイエス研究』p.72に出てくる式と、林晋「「数理哲学」としての種の論理」に出てくる式をつきあわせながらしばらく考え込んでいたのですが、いまひとつ飲み込めないので、この式はしばらく寝かせることにしました。(そしてspreadにももどれず・・・)

 結局、コイントスの話(林さんはコインフリップという言葉を使っています)がいちばんわかりやすよなぁと思うのですが、林さんの説明の中ではコイントスが「偶然性の象徴」として出されており、『カヴァイエス研究』と並行して読むと、「ん?」と首を傾げてしまうのです。というのも、『カヴァイエス研究』のほうでは「意志の作用」に焦点があてられており、そしてこの点こそ、カヴァイエスがブラウアーをそのまま丸ごとでは受け入れない理由であるようなので。

 そこで、いったんページをもどって、ブラウアーの哲学について記述してある箇所を読んでみることにしました。ブラウアーってば、こんなことを言っているらしいのです。(原語は省略)↓

「数学と科学と言語は、人間の活動の主たる機能である。それによって、人間は自然を支配し、自然のただなかで秩序を維持する。これらの機能は、それらの起源を、個々の人間の生における意志の形成作用のなかにもつ。1.数学的な観照、2.数学的抽象、3.音をとおして意志を課すことである」

 そして、「ブラウアーの独自の用語法のために理解しづらいが」という注釈付きで、ブラウアーが述べていることで重要なことを、近藤さんが3点にまとめておられます。

〈1〉数学と言語と科学を、人間という生命的存在の「活動」として理解しなければならない。
〈2〉その活動の主たる目的は、自然のなかに秩序を建設することである。
〈3〉その秩序形成の能力の起源は、人間の意志の働きである。

 ほんでもって、ブラウアーは、「活動」の第一段階としての「数学的な観照」を、「時間的態度」と「因果的態度」とに分解して説明を試みているらしいのです。あら・・・どこかできいたような話に・・・

 ブラウアーがいうには、時間的態度は、ある生命の一瞬間が、質的に区別され2つのものに分離するという知性の原現象以外のなにものでもない、ということらしいのです。それらについて人間はどちらも同じくらい柔軟であると感じるが、それにもかかわらず、記憶作用をとおして固定されていると感じる、と。そのさい、分裂した生命の瞬間は私から切りはなされ、直観的世界として特徴づけられるべき世界に、みずから運びこまれるようになる・・・

 近藤さんは「このあたかもベルクソンの哲学を想起させる一文」と書いておられますが、巻末註によると、ブラウアーとベルクソンのそれぞれの「直観」概念のあいだに、厳密な内容的一致を見ることはできないことが指摘されているとのこと。

 それにしても思い出すのは、ブラウアーのある種の“世間の感覚”のこと(>数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー)。この方、数学的業績をあげていなかったら、単なる「へんなこという人」あるいは「イっちゃっている人」になっていたのでしょうか。でも、業績をあげていても、「ちょっとついていけないな・・・受け入れなられないな・・・」と思われることが多い(?)ようなので、やっぱり上記のような独特の表現はひとつの壁になっているのでしょうね。でも、私、嫌いじゃないな、ブワウアー。バランス感覚保ちつつ興味もちたい人だけど。(^^;

 それにしても「観照」という言葉を初めて変換したように思いま・・・・・と書こうとして念のためサイト内検索したら、あらまっ、過去にも書いているじゃないか。引用部分だけど。(>「担体」という言葉/郡司さん&松野さんのあとがきから) 宗教的な言葉ですよね。ためしに「観照の語源」でGoogleで検索してみたら、スーフィズムという言葉が目に入って苦笑してしまいました。TATA-STYLEで立川武蔵『空の思想史』のこと書き始めています。>イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教の違い  当初の予定では『カヴァイエス研究』読んでからTETRA'S MATH で書こうと思っていたのだけれど、考えたいこと山積みで追いつかないので、もう並行して読んでいく。
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