TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「自律性」について、もう少し/小島寛之の遠山啓観、オートポイエーシス

 カヴァイエスを読んでいく前に、もう少し「自律性」のことについて考えてみます。

 「自律性」といえば、昨年の秋、遠山啓を考える新しい視点を、小島寛之から与えられる。のところで出てきました。小島寛之さんは遠山啓の発想の本質を、「大胆にまとめるならば」という注釈付で、次の2点に集約させていました。→「数学は現実を抽象化したもの」「数学の自律性の利用」

 前者については私も考えてきていましたが、後者の自律性についてはまったく考えてこなかったので、びっくりしました。小島寛之さんは、遠山啓を語る中で、「意味から独立して自己発展できる」という性質こそが数学の「自律性」なのであり、この発想が「一般から特殊へ」という問題配列の方法論「水道方式」として結実することになった、というようなことを書いていました。まさにここで、自己展開ならぬ自己発展という言葉が出てきています。オートマチックという言葉も出てきています。

 なるほど、もしかするとここに、遠山啓を理解する、私がこれまで気づかなかった大きなヒントがあるのかもしれません。しかし、その自律性の話が、小島寛之が語る、遠山啓の「量の理論」で示した次のような話------「タイルによる数教育」や「水道方式」や「量の教育」は、「ハウツー」だけで子どもたちに目覚ましい効果を発現させ、バックボーンなしでも「実践」を通じて広がっていく生命力を持っており、それこそまさに「数学の自律性」がそのまま体現されたことの自己証明と言ってもいいだろう------につなげられると、「えっ、自律性ってそういうことですか??」と首を傾げてしまうのでした。

 とはいえ、やはりあのとき、小島寛之さんから大きな宿題をもらっていたように思います。

 そしてもうひとつ気になる「自律性」は、オートポイエーシスのこと。過去に、擬自律性というエントリを書いています。擬自律性というタイトルは池田清彦さんの書籍から引いた言葉ですが、そっちはおいといて、いま問題にしたいのは、あのエントリの中で書いたオートポイエーシスのその後のことです。

 オートポイエーシスという概念は、マトゥラーナがあたためていた構想と、ヴァレラの位相空間論とが混合されて一つの理論構想となったものでしたが、やがて2人の見解は食い違っていき、ヴァレラは、オートポイエーシスはごく特殊な対象(細胞システム、免疫システム、神経システム)にしか適用できない原理だと判断し、生命の基本原理としては、「オートノミー」(自律性)こそがふさわしいと認定したようなのです。

 そして、郡司ペギオ‐幸夫がオートポイエーシスを批判的に検討していることについても、郡司ぺギオ-幸夫さんのプレゼン映像を見て思ったことで書きました。オートポイエーシスは外部との接触面にできる亀裂を想定していないので、時間と無関係である、と。

 あら、久しぶりに映像を観に行ったら、前半と後半に分かれていて、郡司さんのプレゼンは後半になっているのだけれど、後半がなぜか観られない・・・

 カヴァイエスの「自律性」という言葉に動揺するあまり、わけもわからず宇多田ヒカルのAutomaticの歌詞を調べに行ったりした私なのですが(^^;、小池龍之介のことも思い出していました。>TATA‐STYLE→小池龍之介が語る、「DNAの罠」小池龍之介『貧乏入門』から、「無我」の意味、そしてエゴ

 だけどそのあと、柳宗理は、なぜ「花紋折り」に惹かれたのか。のことも思い出したのです。「花紋折り」の自然発生的な図形、“自分が”創りだすのではない美しさ、意外性を、私は楽しんでいる・・・

 これまで、(自分ではそんなつもりではなかったのだけれど)もしかしたら見ないようにしていたのかもしれない「自律性」という言葉を、カヴァイエスから「生成」とセットでつきつけられ、ライプニッツがいうところのものとは別の“予定調和のようなもの”にからめとられそうな危機感、これからじっくり否定していこうと思っていたところなのにあっさり消滅させられそうな“自己”を感じて、つい身構えてしまったここ数日間だったように思います。そろそろ先を読もうっと。
近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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