TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 「自」という文字の成り立ちが知りたくなって、ネットで調べてみたら、どうやら“鼻”と関わりが深いもよう。「鼻」の旧字体ということなのかもしれない。自分を指すときに鼻をさすので、そういうことになったという説あり。そうか、自分=鼻、なんだ。

 もともと自己相似に興味があった。たとえば、子どもの頃、思い描いていたイメージに、「白いピアノの置物」というものがある。白いピアノの上にピアノの置物がのっていて、そのピアノの置物は白いピアノのミニチュアなので、その置物のピアノの上にもピアノの置物がのっていて・・・と延々と続くイメージ。

 あわせ鏡による繰り返しよりも、単体で繰り返されるものに対する興味が強かった(なので、正四面体が自己双対だと知ったとき、妙に納得した)。そして、自己相似に対する興味のひとつの集約地点が、黄金比だったのだと思う。その後、必然的な流れとして、「自己言及」も気になるようになってくる。早い話、入れ子構造に興味があったのだと思う。

 1つのもので繰り返されるということは、閉じているのだろうか、開かれているのだろうか。永遠に双方向に繰り返されるということは、開かれていることであるような気もするし、所詮は1つのもので構成されていると思うと、孤独のきわみのようにも思える。サイズや次元を変えてどんなに繰り返しても、そこに質としての変容はない。異なるもの、他者との出会いがない。1つのもので永遠に繰り返され得るということは、さびしいことなのだろうか、賑やかなことなのだろうか。

 しかし、今度は自己そのものが気になるようになってきた。繰り返される前の「1」へ。そうなると、自己規定や自己制作というものへ興味が向かう。「境界」を手がかりとして。

 そうこうするうち、自己批判というキーワードが生じる。そこには時制が関わってくる。自己の解体と新たな制作の繰り返し。同一性の問題。

 そして昨年あたりから、ぼちぼち仏教のことを考え始めることにした。たぶん、「自己否定」に向かっているのだろう。

 ところが。

 ここにきて、カヴァイエスから「自己展開」を提示され、「自律性」を提示される。問題は、「展開」ではない。そうではなくて、これまでずっと私にとっては「わたし」だった自己が、「オート」になってしまったこと。ある種の「自己消滅」。カヴァイエスがそう言っているわけではなく、私が勝手に動揺しているだけのことなのだが。「自己否定」までは、自分でできる。と思う。だけど、自己展開は、自分ではできないし、そもそも、自分の話ではない。自律性の「自」は、「鼻」ではないだろう。どうせだったら、自分で自分をきっちり否定したあと、オートの展開を受け入れたかったような気がしないでもない。

 落ち着いて考えれば、カヴァイエスが言おうとしていることは、これまで自分が考えてきたこと、感じたことを覆すものではないのだと思う。だけど、その「必然性」を、私は、<時を越えた私>と称していて、どうしても、「私」をはずせずにいた。

 人間は自然物であるか、数学は発明なのか発見なのか。数学はきわめて個人的な作業なのか、まれにみる人類共通の知的活動なのか。「実証」の意味ではない経験主義、「子どもの思いつき」と見なされるレベルで終わらない構成主義が、相対主義や多元主義に陥らずに、「かたく閉じた心の窓を力強く押し開く()」教育へと結びつくことは可能か。私は、何かの掌の上で生きつつも、「私」であることは可能か。それとも、“掌”込みで生を受け入れるところに、私の意味があるのか。

 先の動揺は、いろんな問いへとつながっていく。
近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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