TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< カヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」 | main | 「自己」にまつわるとりとめのない曖昧な思考 >>

「数学は生成である」ということと、「自律性」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。

 直観主義の真理観と、伝統的な真理観は、どのように対立するのか。

 簡単にまとめると、「数学的真理は即自的に存在し、永遠の相のもとで不変である」とするのが伝統的な真理観、「数学的真理は、その真理が数学的な方法によってじっさいに構成されるまでは真理としては認められない」というのが直観主義の真理観ということになります。直観主義の真理観の場合、真理は、証明の過程から独立して即自的に存在しているものではない、という見方に立っています。

 なお、本の中では、本質を不変なものとみなす伝統的な思想の例として、アリストテレスが出てきます。「アリストテレスには、世界を永遠不変の本質のみからなる世界と、生成する具有性からなる現実世界とに二分したような思想がある」と。

 で、カヴァイエスは、博士論文が完成する6年ほど前(1931年)の段階で、ある手紙のなかで、「真なる理性、すなわち思考の絶対性は、生成[devenir]の本質である」というようなことを書いているらしいのです。

 また、彼は、科学的思考を、昆虫標本のように真理をピンでさして固定するようなものとしてみなすのではなく、反対に「本質にしたがって自己展開する思考」であるとかんがえていた。

(p.56)

 この、「真理をピンでさして固定する」という表現はすごいですね。ちなみに巻末註によると、上記の「本質にしたがって……」の部分は、カヴァイエスが25才くらいのときに父親にあてた手紙の中に書いてあった言葉のようです。

 ほんでもって、上記のような手紙を書いてから10年後くらいの1939年の博士論文の公開答弁では、「数学は、生成である」と述べているそうなのです。

 というようなカヴァイエスの真理観は、直観主義の真理観に相通ずるものがあるわけですが、資料の年代を考えると、カヴァイエスはその真理観をブラウアーから受けとったわけではなさそうなのです。つまり、ブラウアーに出会う前にカヴァイエスは「真理の生成」ということは考えていた。でも、まだ充分には作りこまれないままであり、そのあと、同じような主張を数学の中でおこなっているブラウアーに出会い、自分の思想を具体化・補強するアイデアを受け取ったのではないか、と近藤さんは書いておられます。
 
 で、上記p.56の引用部分の少しあとで、カヴァイエスいうところの数学の「生成」は、アリストテレス的な偶有性のがわに属してはいない、という話が続きます。なぜなら、「この生成は自律的であるようにおもわれる」からであり、その「自律性」は「必然性」を含意するからである、と。

 私はここを読んだとき、衝撃を受けました。そして、自分が衝撃を受けていることにショックを受けました。

 そんなこんなで、カヴァイエスの真理観を読み込む前に、あれこれ考え込んでしまっています。

(つづく)

近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

サイト内検索