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数学と数学教育
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カヴァイエスとブラウアーの直観主義をつなぐ、「真理観」

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』の第2章「ブラウアーの直観主義と操作概念」を読んでいます。

 前回のエントリで、カヴァイエスにおけるブラウアーの影響が軽視される傾向にあることについて書きましたが、第2章・第1節では、その理由が2つあげられています。ここ、とても面白いのですが、あえて、あとでみていくことにします。

 というわけで、まずはストレートに、「カヴァイエスの哲学と共鳴するブラウアーの直観主義の中心的なアイデア」を見ていきます。ここで「共鳴する」と書いてあるように、カヴァイエスはブラウアーから影響を受けて(受けたから)、これこれこういうことを考えるようになったわけではないようなのです。すでに考えていて、そして、ブラウアーに出会った、ということのようなのです。

 なお、このブログではブラウ“ワ”ーと書いていることが多いですが、近藤さんはブラウ“ア”ーにしておられるので、これからしばらくはブラウアーで書いていきます。

 ちなみに2010年の夏には、金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を読むなかで、ブラウアーに関わるけっこうな数のエントリを書いています。 おもなところでは、

  数学はメンタルな「行為」だと主張した人:ブラウワー
  ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係
  ブラウワーがいうところの数学の無言語性
  フレーゲとラッセル、そしてブラウワー

などがあります。

 このとき垣間見たブラウアーと、近藤さんが示しておられるブラウアーは、もちろん大きく異なるものではないというか、私が思うブラウアーそのものなのですが、表現のしかたが違っていて、面白いし、ドキドキします。というのも、ここはブラウアーそのものを語るところではなく、カヴァイエスがブラウアーから何を受け継ぎ、何を受け継がなかったか、という視点で書かれてあるからだと思います。

 近藤さんは、カヴァイエスが「直観主義から受け継いでいるいくつかのアイデアをつなぐハブとなるアイデア」として、「ブラウアーの真理観」をあげておられます。

 ブラウアーの真理観は、ハイティンクのまとめにしたがえば、「認識の可能性が、認識をおこなう作用そのものによってしか、われわれにはあらわれない」ということになり、これがブラウアーの構成主義的立場とつながっていると私は理解しているのですが、カヴァイエスはブラウアーの真理観を、「問題は、それが解かれるかぎりにおいてのみ、可解である」と表現しているようなのです。この可解性を、私自身は「問うこと・解くこと」という対のフレーズでとらえており、このフレーズはカヴァイエスの真理観を理解するための重要なキーワードになるのだろうと思っていますし、私自身のサブテーマでもあります。
 
 で、このような直観主義の真理観は、伝統的な真理観と対立するということを、もう一度見ていきます。

(つづく)

近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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