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数学と数学教育
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ブラウアーの直観主義と、カヴァイエスと、近藤和敬さん

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。きょうから第2章。

 章タイトルは、「ブラウアーの直観主義と操作概念」です。私にとっては、とても自然な流れです。岡潔と同じ意味で、すでに了解している気分。だって、近藤さんが、そういう流れで序章と第1章を書いているから。

 何が面白いって、2章がブラウアーで、3章がヒルベルトだということ。この本、カヴァイエスのモノグラフィという形で書かれた、近藤和敬さん“の”本なんですよねぇ。

 私はあれを思い出しましたよ、デューイの二元論批判(河村望による訳者あとがき)のことを。デューイの和訳は、訳者自身の二元論的認識論の枠組みのなかで勝手に解釈されることが多かったという話。

 書かれたものから何をどう読みとるのかは、しみじみ、読み取る側に依存していると思うことであります。しかし論文の場合、物語の感想などとは違って、そう読む根拠を示さなくては意味がないし、示すことができる。

 早い話、カヴァイエスの一般的な解釈は、代数学と構造主義に傾倒して行われることが多かったようなのです、これまで。

 一般的なカヴァイエス解釈の例として、シナサールという人と、グランジェという人が出てきます。

 シナサールは、カヴァイエスが博士論文を書き終えたあと、ブラウワーとハイティングに論文を手渡すために直接アムステルダムに赴いているという事実に注意しながらも、その意味を軽視して、カヴァイエスの概念の哲学とブラウアーの直観主義との差異を確認するだけにとどまっているのだそう。
 
 また、グランジェは、いいところを突いているにも関わらず(←私の表現)、それをウィトゲンシュタインの数学の哲学と結びつけてしまうらしいのです。

 で、それぞれの気持ちや根拠もわかるんだけれど、近藤さんは、そうじゃないんじゃないかな、ここでもってくるべきはブラウアーの直観主義なんじゃないかな、ウィトゲンシュタインとカヴァイエスで一致する点があることについても、ブラウアーが一枚噛んでいるんじゃないかな?という見方をしておられます(←全体的に私の表現)。

 と、近藤さんが考えるのも、カヴァイエスの「操作」概念に注目したからこそのこと。

 というわけで、第2章は、「カヴァイエスは、カントの直観の理論を数学的に解釈しなおしたものとして、ブラウアーの直観主義を高く評価していた。」という1文で始まります。しかし、カヴァイエスとブラウアーの直観主義との関わりが、集中的に検討されたことはなかった、ということで、上記の話へとつながっていくのです。

 実際、カヴァイエスは、直観主義の主張をそのままのかたちで同意しているわけではないのだそうです。ということは、やはりカヴァイエスはダメットに何か通じるものがあるのかもしれません。もちろん、直観主義の何を重視し、何を拒否したかは違っているかもしれませんが。

 そのような現状にあって、ブラウアーの直観主義とカヴァイエスの概念の哲学とのかかわりについて正当な評価をくだしているのが、スブスティク(Sebstik)という人なのだそうです。スブスティクいわく、

「カヴァイエスは、(直観主義が主張する)原直観の作用による数学的基礎づけに賛成することもなければ、ブラウアーによって数学に課された制限に賛成することもない。そうであったとしても、直観主義の2つの主題が、本質的には活動性と実効性の要求から成り立っている(カヴァイエスの)学知の構想のなかで、彼の学知の理論の中心に見出される。彼の学知の理論と深く共鳴しているブラウアーの認識論の詳細な検討を、カヴァイエスが先延ばしにしてしまったことは残念なことである」

(p.54)

 そんなスブスティクも、上記の「活動性」と「実効性」について、その内容的な検討をじっさいにおこなったわけではないそうなのです。なので、それを近藤さんがやろうとしておられるのだと、私は理解しました。

(つづく)

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