TETRA'S MATH

数学と数学教育
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真理の発掘と、空からの俯瞰の間にある運動を生け捕りにする


 そういえば前回のエントリで書くのを忘れていたのですが、「概念の哲学」というのは、カヴァイエスの哲学のことを指してこう称されています。また、カヴァイエスの哲学を理解するうえで、「操作」という言葉がとても大切なキーワードになるのですが、「概念」にしろ「操作」にしろ、言葉が“普通”すぎて、かえってわかりにくいというような印象を最初にもちました。ちなみに序章には、「「操作」というテーマについて」というタイトルがついています。でも、「内在」という言葉が、その言葉だけで何かわかったような気になるのに対し、「概念」や「操作」は、「なにをさしてこういう言葉を使っているのだろう?」という気持ちにさせてくれるので、いまとなっては、普通すぎる言葉でよかったかも・・・と感じています。

 ほんでもって、カヴァイエスの「概念の哲学」は、条件の認識が条件づけられる真理に内在していると徹底して考えるものなのであり、この立場において、形式とは、内容との相関関係によってのみ把握され、その全体を一挙に把握することはできないものであることが肯定的に認められる、と近藤さんは書いておられます。さらに、このような内在の思想は、ある種の哲学とは根本的に相性が悪いのかもしれない、と。

 ある種の哲学とは、
つまり、生身には触れることなく、その全体を眺望しようという超越論的哲学である。
 そして、こう続きます。
 しかし、「概念の哲学」がある種の経験の俯瞰ではまったくないというわけではない。数学的真理にかんして言えば、純粋な内在の立場とは、もはや哲学ではなく数学そのものであるだろう。そうではなくて、「概念の哲学」は、空から俯瞰することと地面のしたを潜ること、あるいは超越と内在とのあいだに生じる弁証論的な生成そのもののメカニズムを把握することを企てるのである。数学者は地面のしたに潜り真理を発掘し、超越論的哲学者は空のうえから真理のはてを俯瞰するが、概念の哲学者はそのあいだにあって、その運動それ自体を生け捕りにしようとする。(中略)
 条件と条件づけられるものについての、2つの異なる立場(それらが独立しているとかんがえる立場とそれらがたがいに含みあっているとかんがえる立場)は、真理と知性についての形而上学的な理解の違いによるものなのかもしれない。
  (p11〜12)

 で、上記引用部の最後のところに巻末註がついていて、この註が、3日前に書いたエントリ:哲学は、数学を、どのように分析してきたか。の最後で示したものにあたります。すなわち、「形而上学」的な立場の違いというより、ダメットが定着させた語用法に基づけば、(真理論という意味での)意味論的な実在論と反実在論のあいだの立場の違いということになる、という補足説明がなされているのでした。で、さらに続けて、「内容の無尽蔵性」(inexhaustivité)、あるいは真理の生成を主張するカヴァイエス(と筆者)の立場は、意味論的には反実在論ということになる、ということについても書かれてあります。「無尽蔵性」については加えて面白い註があるので、次回のエントリで。

 ほんでもって、序章本文にもどりますれば、上記引用部分のあと、次のようにまとめてあります。

 すなわち、真理の不動性や永遠性を知性の規範とするか、あるいは真理の生成や産出や進展や修正を知性の規範とするかという違いである。
 近藤和敬さんを知らなかったころの私がこれを読んだら、きっと興味をもつに違いない、うん。


(つづく)
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