TETRA'S MATH

数学と数学教育
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現象学とカヴァイエスの違いを軽くおさえておく―超越と内在と

 近藤和敬『構造と生成1 カヴァイエス研究』を読んでいます。

 気がはやいですが、現象学とカヴァイエスでは何が違うと書かれているのかについて、軽くおさえておこうと思います。

 で、軽くおさえたいのだけれど、そのためにはまず、「内在」という言葉を、近藤さんの立場とともに軽くおさえておいたほうがよさそうなのです。

 またまた「あとがき」にとびます。

 近藤さんの立場は、戦後の現代思想のなかで、とりわけ「内在論の哲学」と言われる一連の思想家たちの立場と共鳴するものなんだそうです。戦後の現代思想で言えば、ドゥルーズ、ガタリ、フーコー、90年代以降で言えば、アガンベン、ネグリ、エスポジト。なぜ「内在論の哲学」なのか、エスポジトの言葉がそれを的確に要約してくれているとして、次の部分が引用されています。

「いまや政治と生とのあいだに決定されるのは、相互に錯綜した内在的な関係であって、これは、かたちは異なるとはいえカントからハイデガーにいたる超越論的な哲学をとおしてはもはや解釈不可能なものです。そうではなくて、不連続的で断片的であるとはいえ、スピノザからニーチェを結び付ける、まさしく内在論の哲学によって解釈されるのです」(岡田温司訳『近代政治の脱構築』)

(p.258)

 このあと、「内在論の哲学」と言語的な構築というアイデアの関係について触れたあと、近藤さんは次のように書いています。

 しかし、なぜ「内在論の哲学」は言語構築主義と一定の関係を保つことを必要としてきたのか。それは、超越論の哲学がもつ真理と本質という抑圧的機制を無効化するためであったと言ってよいようにおもう。

(p.259)

 これ以上立ち入ると“軽く”でなくなってしまうので、ひとまず「超越論と内在論の対立」ということだけ頭に入れておくことにします。

 で、きのうのエントリ:哲学は数学をどのように分析してきたかにおいて、「カヴァイエスの研究プログラムをこのようにまとめると、それは現象学ではないのかという指摘がなされることが予想される」という巻末註の補足に触れておきましたが、近藤さんは、「この指摘は本質的なものである」としたうえで次のように説明しています。

 実際、カヴァイエスは現象学に関心をもっていたし、現象学と距離をとるようになってからも、カヴァイエスにとって現象学は重要な参照点であった。では、カヴァイエスがやろうとしたことと、現象学との差異はなんなのか?

現象学にたいするカヴァイエスの「概念の哲学」の距離は、第4章の結論、第5章、第6章で徐々に明らかにされる。その分析を先取りして、これらの差異を「概念の哲学」のがわの特徴として述べれば、「真理の実効的な経験は数学に内在的である」という文にまとめることができる。(中略)すなわち、これら現象学と「概念の哲学」のあいだの本性的な差異は、超越論的審級へとむかう「志向性」の分析と、内在的平面へとむかう「操作」の分析とのあいだに位置してくる。

(p.217)

 というところまでをふまえて、序章本文にもどります。きのうのエントリで「新しい真理という言葉ほど形容矛盾した言葉も存在しない」という部分について書きましたが、では、真理の「新しさ」の問題にたいする常識的対応にはどのようなものがあるかということで、3つの類例が示されています。1番目と3番目は省略して、2番目だけをみてみますと、

〈2〉 個別の数学的真理は、たしかに知られていないものがおおく存在するかもしれない。しかし、それがいかなるものであれ、発見される真理には、それがしたがっているある条件が存在している。そして、われわれはその条件を、個別の真理からは独立に把握することができる。

(p.9)


となっています。結局のところ、現代のおおくの哲学者が採用するのはこの2番目の立場である、と近藤さん。だとすると、その「条件」になにを代入するのか?ということになり、きのうのエントリで示した数学の分析プログラムの4つの分類のどれに進むかが決定されます。近藤さんは4つの分類を「論理学か、メタ数学か、超越論的意識か、認知メカニズムかである」とまとめています。

 論理学、メタ数学、認知メカ二ズムはいいとしても、3番目は「現象学的分析」ではなく「超越論的意識」となっています。私は前回のエントリで分類の文章そのものを引用せずに、註の具体例だけを示したので、「フッサールの現象学的分析」としたのですが、本文ではこの3番目の項目は「〈3〉 数学的真理を超越論的な観念性として理解し、現象学的に分析する。」と示されています。

 なので、この〈3〉をひとことでまとめるとしたら、「現象学的分析」よりも、むしろ、「超越論的意識」のほうが的確なのだろうと思います。そしてカヴァイエスの哲学は、現象学を参照としながらも、現象学とは異なっており、先の4つの分類に還元されない研究プログラムなのだから、その特徴をおさえるときには、先の「内在」という言葉が手がかりになるのではないかと思うわけなのです。

 すなわち、先の研究プログラム4つの分類のうちのどれに進んでも、

 彼らはいずれにせよ、条件が条件づけられるものに内在しているとはかんがえない。すなわち、個々の真理からは独立に、真理を手にするための条件を把握することができるとかんがえているのである。

(p.10)



 せっかく著者が、整理して流れを作ってわかりやすく書いてくださっているのに、わざわざ私が小難しくしてはいないだろうか!?という懸念がなきにしもあらずですが、とりあえずこんなふうに読んでいますということで。


(つづく)

近藤和敬『カヴァイエス研究』 | permalink
  

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