TETRA'S MATH

数学と数学教育
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哲学は数学をどのように分析してきたか

 というわけで、近藤和敬『構造と生成機.ヴァイエス研究』を読んでいきます。近藤さんいわく、この研究は、おそらくは現代哲学史研究ないし哲学研究に位置づけられることになるとおもう、とのこと。本の中で数学や数学史に直接かかわる部分はけっこう扱われているわけですが、だからといってこれが数学についての哲学であるかどうかは、人によって判断のわかれるとこだと思う、筆者はあえてこれが数学の哲学であると主張したいとはおもわない、と書かれています。

 そうそう、最近……っていうか、もっと前からだろうけれど……思うんですよね。自分がいま考えたいこと、これから考えようとしていることが、もし数学でなくても、数学の哲学でなくても、全然かまわないって。数学だから考えたいわけではなく、考える価値があるというわけでもない。でも、これから考えようとすることは、数学と無関係でないことは確かだと思います。

 で、まずは序章において、「どのようなアプローチで、厳密科学の土台としての数学を分析するか」という哲学の最初の問題に関して、数学を分析するプログラムが4つの分類で示されています。それぞれちゃんと文章で示されているのですが、私はむしろ巻末の「註」に示されている具体例をみたほうがわかりやすかったので、私がわかる人名だけをあげて分類の雰囲気をお伝えしますれば、1番目は論理主義、論理実証主義の人たち、フレーゲ、ラッセル、カルナップなどのアプローチ、2番目はヒルベルトのメタ数学的な観点、3番目はフッサールの現象学的分析、そして4番目は心理学的・認知科学的・脳神経科学的な分析で、最初期のフッサールや一時期のピアジェなどが例にあげられています。

 ほんでもってカヴァイエスの研究プログラムはといえば、これらの分類のどれにも属さないらしいのです。

カヴァイエスの哲学は、おおくの場合、それらの成果にたいして慎重に耳を傾けている。しかし、その一方で、そのどれからも距離を取り、どれにも還元されない特徴も有している。

 (p.8)

 なので、カヴァイエスの哲学は、既存の研究プログラムの一部ないし変種として提示することはできないということになります。

 では、カヴァイエスの研究プログラムとはどういうものか? という特徴について、端的にまとめてあるものの、私にとっては非常に魅惑的なこの言葉を引用していいものかどうか……と、よくわからない不安のもと迷った末、引用しますれば、「経験としての数学という地平を切り開くこと」あるいは、「数学と名指される経験の本性を明るみにだすこと」ということになるらしいのです。実際は傍点付きで強調されています。なお、こうまとめると、それは現象学ではないのか?と思う人もいるかもしれないことについては、巻末註に補足説明があります。

 話をもとにもどすと、上記の特徴が示されたあと、すぐに続けて、「これは、数学という経験を可能にする構造を明らかにすることを意味しているわけではない」とも書かれてあります。なお、今後、傍点付きの文字は太字で表すことにします。

ここで「経験としての数学」という言葉が意味しているのは、数学という経験が、ほかのいかなるものにも還元不可能なしかたで、経験として現にあたえられているという事実である。
 カヴァイエスの「概念の哲学」は、真理の直接的経験という意味での数学という特異な経験がもっているある特徴に注目することから出発する。すなわち、必然的で超越的とさえ言われる数学的真理はなぜかそのすべてを一挙に開示するしかたではわれわれの手にはあたえられておらずしかしわれわれはそれにもかかわらず現に手にしている真理から出発してあらたな真理を獲得することができるという特徴である。

 近藤さんいわく、「新しい真理という言葉ほど形容矛盾の言葉も存在しない」。
 
 この少し先の文章につけられた「註」によると、カヴァイエス(&近藤さん)の立場は、「一見奇妙なことではあるが」という前置きつきで、意味論的には反実在論になる、と書いてあります。ちなみにこの「註」にはダメットの名が出てきます。そうそう、最近、もう私、観念しました。「あなた、実在論者でしょ?」と言われれば、とりあえずしぶしぶ「はい」と答えます。ただし、反実在論者に憧れる(あわよくば反実在論者に寝返りたい)実在論者。でも、「はい」と答えても「いいえ」と答えても、あいかわらずねじれは解消されないのであった。

(つづく)

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