TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 父が語る、高校教師・補導主任の日々 | main | 久しぶりに「かけ算の順序」問題を考える (1) >>

教師として生きてきた両親と、教師にならなかった私。

 私の父は私立高校の数学教師、母は公立中学の数学教師だった。また、保育士をやっていた叔母と、大学の先生をやっていた叔父もいる。というわけで、私は教育色の強い家系の中で生まれ育ったのだけれど、身近に小学校教師がいなかった。だからというわけでもないだろうが(だからだったかもしれないが)、大学進学のときに教育系学部の小学校教員養成課程に入学し、数学研究室に属した。しかし、結局、教師にはならなかった。

 いつだったか母が、私が小学校教員になれば幼稚園(保育所?)から大学までそろうので、○○学校が作れるというようなことを言っていたことがある。○○にはわが家の姓が入る(叔母と叔父は姓が違うんだけどね・・・)。冗談と本気の比率はわからない。おそらく机についている時間がきわめて少ない学校になるだろうと思われた。また、学校にいる間は楽しいかもしれないが、そこを卒業して社会でやっていけるかどうかは、きわめて疑問な学校になるだろうと思われた。もちろん、実現はしていない。
 
 私自身はほとんど覚えていないのだが、わが家は本当に来客の多い家だったらしい。生徒もよく遊びに来ているし、勉強に来ている。塾もしていたのだろう。そういえば新築する前の古いほうの家には、20名くらいの生徒が集まれるくらいの座敷があった。このスペースは、最初の家に増築して作った居宅部分の二階だったと思う。

 それ以外でも、たとえば私の小6の担任が、いったん家庭訪問に来たあと、他の家庭の訪問をすませて、またうちに来て母と話し込んでいたことがある。若い先生だったので、何か相談ごとがあったのかもしれない。

 また、母はよく生徒を連れて出かけていた。キャンプなどに私もいっしょに連れて行ってもらった記憶がある。よくあれだけ学校外活動ができたもんだと、いまさらながら驚いている。あの時代で、あの地域だからできたのだろうか。それとも、母だからできたのだろうか。

 そんなふうにして私が小さい頃の実家はにぎやかな家だったらしいのだが、母の教師時代の晩年は、少し事情の違う来客があったらしい。家出しそうな生徒に「行くところがないならうちに来い」と言った、という話を母からきいた記憶もうっすらとある。当時、私はもう実家には住んでいなかった。父はそのときの様子を次のように記録している(なお、○○というのは母が当時勤務していた学校、□□は母の名前。昭和59年のこと)。



[2/15] 九時少し前くらいから○○中の女生徒が二人来る。十時半頃また一人来る。□□のクラスの生徒らしいが、何か騒動していた。
[2/16] 午前三時まで騒動が続いていた。男の子二人と女の子二人、いずれも不純そうな生徒と一人の父親の揉め事で中々寝着かれなかった。
[2/27] この前泊まり込んで行った二人の女子、今日は三限目の授業を抜け出して我が家に来たらしい。
[2/28] ○○中の女生徒夜遅く来る。一人は親が迎えに来たが、もう一人は?
[3/2] △△(新聞社の名前)の社説に□□のことが書いてあると言うので、改めて見たら、先日の宿泊のことだった。
[3/8] 階下にまた不良生が屯していた。二、三人は親が迎えに来て連れて帰ったが、残りの何人かが泊まらせてくれと言っていたらしい。妻は先日約束したのだから今日は絶対駄目だと断行すると、そんなら野宿すると言って、これ見よがしに出て行った。その後を女の子が同情を繕って追い掛けて行ったようだ。その子は受け持ちの子で父親から面倒見を頼まれていたのだろう。頻りに呼び止めていたが、逃げ出した男が気になって、後ろを振り向きもせず、後追いして遂に帰って来なかった。わがままな性格が不良を産む。自分の子を我がままな性格にしたのは、親の責任だと結論するけれど、結局は自然の成せる技なのではないのか。誰にも責任なんてあるものじゃない。唯悪運を身に着けて現世に浮き出ただけなのだ。妻も、義母も一睡も出来なかったらしいが、私も午後三時の時報まで耳に残っていたようだ。これが教師の勤めなのか、とすれば、私は完全に自分の道を過った気がする。



 この記述を読む前にすでに私は、「教師にならなくてよかった・・・」と父の『思い出の記』を読みながら感じていた。父は、そういうことを感じさせるために書いたわけではないのだろうが。

 もっと言えば、これを読む前に、娘を通して小学校の先生と接する中で、私に学校の先生はやっぱり無理だったなぁ、と感じていたと思う。身体的にも精神的にも相当タフでないとやっていけないと思う。もちろん、テキトーにやっている教師もなかにはいるかもしれないが、それでもやっぱり教師という仕事は本当に大変な仕事だと思う。

 父も母も、生徒のことでも苦労しているが、校長とのすったもんだもあったろうし、同僚とのあれこれもあっただろう。 

 どんな職場にも、その職場なりの苦労とストレスがあるだろうし、どんな職場にも、その職場なりのやりがいがあるのだろうと思うが、父と母は、いったい何をやりがいとして、何を支えとして、教師を続けていたのだろうか。それについての答えはいろいろあるとは思うが、1つ思うことは(特に母に関しては)、「教科」が1つの支えであったのではないか、ということだ。

 私が大学を卒業したあと、小学校教員になった友人からある相談ごとを受け、それを母に相談したことがあった。そのときに、小学校教師と中学校教師の感覚の違いを感じたのだ。友人は同僚たちとある制度を変えようとしていて、母はそれに対して、「とても大変なことだから、いま受け持っている生徒たちを第一に考えたほうがいいのではないか」というようなアドバイスをした。複式学級に関することだったので、小学校と中学校の違いの前に、学校の規模や地域差のこともあったかもしれない。なお、友人たちはその改革を実現させた。

 思うに、中学校や高校の先生たちは、自分が専門としている「教科」のなかで、いろいろなことができるのではなかろうか。「教科」を支えにしたり、足がかりにしたりすることができるのではないだろうか。もちろん、教科の中でも、いろいろなしばりや制約はあるだろう。でも、数学なら数学の時間が、そのほかの時間よりも、1つの自由の可能性をもっているのではなかろうか。もっといえば、「自分らしく」あることができる場所なのではないだろうか。父の拠り所についてはよくわからないけれど、母にとって、数教協は、自分が自分らしくあるための大きな存在だったのだと思う。では、(専科ではない)小学校の先生たちの、やりがい、心の支え、「自由」は、どこにあるのだろうか・・・
父からのメッセージ | permalink
  

サイト内検索