TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 父が語る、「私と数学」 (2) | main | 父が語る、高校教師・補導主任の日々 >>

父が語る、「私と数学」 (3)

 父は結核療養のあと、地方自治体の公務員になり、私が生まれる前年に私立高校教員になった。

 ちなみに母は公立中学校の教師をしていたわけだが、父と母の勤務状況は、高校と中学の違いのほか、私立と公立の違いも大きかったのではないかと思う。いちばんわかりやすい違いは、母は何度か転勤していくつかの学校を経験しているが、父はそれ以来退職まで同じ高校に勤めていたということ。また、組織としての在り方も違ったことだろう。教員生活についてはあとで詳しく出てくるのだけれど(補導係の苦労や、組合運動の記述が多いことが印象的)、「私と数学」のところでは、教材の工夫について綴られている。父いわく、
 数学と言う教科の履修を、将来の進路に合わせてると、生徒の学習態度は乱れてしまう。したがって、生徒の目を授業に集中させるためには、それなりの工夫を必要とした。
 その工夫をみていこうと思う。(私なりに要約)



○軌跡の犬(1、2年商業科)
 
 いくつかの座標をあたえ、指示通り点を連結していく。作業は単純だが、できあがった図形は最後に犬のシルエットになる。これに名前をつけさせ、色と模様を施して、簡単な物語を書かせてみた。


○人口構造の改革(2年文系)

 山村と都市を仮設し、人口を与える。山村から都市へ、都市から山村へと移動する人口比を4:6とし、将来、人口がどんなふうに変化し、最終的にどうなるかを推測していく問題。うまい方法を発見した生徒の名を借りて、○○の定理と名づけた。


○組み合わせの実験(3年商業科)

 授業中に活用する班の編成で、6、7人のグループができるだけスマートな形になるよう座席表を分割させる問題。全員から募集。普段の授業態度では想像もできない生徒から、目を見張るような作品ができた。


○猫の変換(>小沢猫のことだと思います)

 原画(かわいい猫の絵)を与え、まずはその絵で惹きつける。一次変換の式を各自で作り、その変換で原図が千変万化に変形し、1本の直線になってしまうものもいる。これには逆変換がなく、交通事故にあった猫で、もはや生きかえれないのだと注釈する。それでないものは、逆変換によって、また元の姿になることを補足する。


○三次曲線の大型グラフ(2年生科コース)

 全員に共通の三次関数を与え、こちらで指示した変数に対し、分担して関数値を求めさせる。大きなグラフ用紙4枚を張り合わせ、それに点を記入させて、順次直線で結んでも、遠くからみるときれいな曲線に見えるのがねらい。


○七夕のお星様(3年文系、3年商業科)

 父が中学1年生のときに習った方法で正五角形を描かせ、頂点を1つおきに結び、さらに中心と各頂点を結ぶと、星型ができる。(「元陸軍の帽章みたいだ」と父)


○正十二面体の作成(3年文系)

 同じ大きさの正五角形を厚紙で2つ作り、折り重ねて正十二面体を作るもの。


○正五角形作図(3年文系)

 上記の作図が正しいかどうかの証明を三角比の三倍角を使って解かせる。


○年令当てカード(3年商業科、2年生科)
 
 6枚のカードに32個ずつ数を書き、1〜63の数を適当に覚えさせて、カードをめくりながら、覚えた数が入っているかどうかを「はい」「いいえ」で答えさせて、数を当てるゲーム。(年令当てというより数当てですね)


○円の作図(3年商業科)

 円の方程式であることをふせて、全員に共通の円の方程式を与える。xの区間を100等分し、それぞれのyの値を開平演算で求めさせ、グラフ用紙に念入りに点をとらせる。つくっていくうちに左右対称になることに気づき(上下対称ははじめから理解している)、最後にできた図形を見て、肩が凝るような今までの作業が快感に変わる。



 これらは、実際に授業に取り上げ成功した実践例で、私学4校で組織している組合連合の研究会で発表したものなのだそう。しかし、大学進学を主体とする現在のその高校教育の中では良い評価が得られるはずがない、と父は書いている。

 父の勤めていた高校は、私立のとある大学の附属高校で、国立大学に何人通すか、附属しているその大学に何人通すかが学習指導の焦点になっていた。これら100名そこそこの進路の保障に対し、スタッフも多くを必要とはせず、2、3人もいれば事足りたのだとか。後輩の何人かは努めてこのエリート学級を持ちたがったらしい。実力とは無関係に生徒の志望が高いところに向いていたらしいが、早い話、授業がやりやすかったのだろうと思う。

 父にはこの役がまわってこないので、僻みがつもって恨みにかわり、ここ数年は諦めともなって、進学のための教材研究や指導法の研究から遠退いてしまっていた、と書いている。定年前の最後の年には、大学進学志望者の面倒を徹底的に見たかったが、そのとき父は副校長だった。副校長の重責がのっかっていると無理だろうと思い辞表を提出し、副校長の椅子を返上して、非常勤として数学指導に熱中しようと思っていたらしいのだが、与えられたのは商業科3年の2クラスだったとのこと。もし、自分に特別学級の授業が無理だと判断するのだったら、せめて、いままで一年間楽しく授業を続けてきた2つの科の全クラスをあずけてほしかった、と父は思ったらしい。自分の実力はこんなものなのか、そんな風にしか評価されていなかったのかと思うと無性に腹が立って、会議室でもらった辞令をその日のうちに事務局に付き返して、早々と帰宅したらしい。

 らしいというか、この頃までに私はけっこう大きくなっているので、父が定年よりも1年早く退職したことと、何か気にくわないことがあったらしいことは、おぼろげながら感じていたし、記憶している。確か、出勤簿に「もう、来んからね〜」と書いて帰ってきたと話していたように覚えている(ほんとかどうかはわからないけれど)。そういう事情があったのかぁ、とこのたび確認したしだい(ほかにも理由はあるのかもしれないが)。

 父は「私と数学」を次のように終えている。
 この驕り、この我がまま、それだけで、教育組織の仲間としては不的確である。なまじっか、色気を持つのは止めて、静かに余生を送るのが、身のため、人のため、そして、学園のためだろう。

 なお、父は現役中に自宅でも高校生を教えていたが、退職後しばらくして、また自宅で生徒に勉強を教えていた時期があった。
父からのメッセージ | permalink
  

サイト内検索