TETRA'S MATH

数学と数学教育
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父が語る、「私と数学」 (1)

 父の『思い出の記』は、時系列に即した物語としては81ページから始まっており、それよりも前は、家族のことや自分の趣味、娯楽、本棚などについてまとめてある。そのなかからまず、第五章「私の本棚」におさめられている「私と数学」をのぞいてみようと思う。

 父は、小学校3年生くらいのころ掛け算の九九がうまくいかなくて居残りを命じられたことがあり、そのときまでは誇れるものを何も持てない哀れな落ちこぼれだと自覚していたという。それが一斉実力考査のようなものがあったときに算術だけは上位にランクされていて、保護者面談でそれを知った父の母親は大いに気を良くし、ついでにあらぬ期待を自分に求め始めた、とのこと。

 算術が楽しくなってきた父は、小学生のころの具体的なエピソードをいくつか書いている。よくこれだけ詳細に覚えているもんだと、わが父のことながら感心する。

 たとえば、異なる4つの物を1列に並べる順列の数についての問題が、「桃太郎、犬、猿、雉」を題材にとり、この4者が1人ずつしか渡れない1本の丸太を渡るとき、その順番は何通りあるか、というような表現で出されたことがあるらしい。この問題に対し24通りという答えを出したのは父だけで、大多数の生徒は秀才を含め16通りだと言い、先生もそれを信じて16通りを正解と結論し、あやうく次の題材に進もうとしたときに父が待ったをかけた、という話。そして繰り返し吟味して、父が書き並べた要素の中に、一通りの重複もないことを確認してもらい、凱歌は父に上がったという。

 また、正方形の縦横を4等分して、その図形の中に四辺形をいくつ数えられるか、という問題でも、いろいろ異なった解答が出されたそうだが、父の申告する「100個」の正解が出るまでは、次に進まなかったのだそう。

 というようなことがあり、算数だけは誰にもまけないという自信がついた父に対して、中学校を受験するときの内申書には「理数系に富む」という評価が書かれたらしい。

 話が前後するが、父は昭和7年に、当時日本統治下にあった台湾で生まれている。父の父は警察官だった。受験した中学というのは台北第一中学校のことで、この学校のことや受験の様子についてもあとで説明が出てくる。市内の小学校の秀才が集まる学校であるらしく、一学期の成績は250人中109番とふるわなかったが(っていうか何で覚えてるの??)、数学だけは100点であったという。

 まだまだエピソードは続く。2桁の整数の暗算がはやかったこと、そのおかげで2数の和差の積が平方差に等しいという公式を、図形で説明される前に、何題か暗算でやらされたときに正確に答えを出せたこと、内地の進度を配慮してハードスケジュールな授業が行われたおかげで、引き揚げたあとの中学校で出された図形の面積の大小の問題が自分だけ解けたこと(三平方の定理を使えたから)、初等平面幾何の問題を解くのが大好きで、数学だけは友人達に一目置かれる存在になっていたことなどなど。

 小中学生時代のささやかな自慢話のようにも聞こえるが、次のようなくだりでは、歴史の色合いを感じるのだった。
 台湾から引き揚げて来て、友人も少なく、出来るだけ近着こうとしても、彼らの遊びには、中々着いていけない。彼らは、ピンポンや、潮浴び等をよくしたが、私は、不得手であった。
 孤独の淋しさを紛らわすものと言えば、数学の本だけであった。私は、台湾から持って帰った、立体図の投影画法と、難解な文語調で書かれた旧中学校の幾何の本を出しては、それを解いて一人で遊んでいた。
(つづく)
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