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数学と数学教育
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「ア・プリオリ/ア・ポステリオリ」と「分析的/総合的」

 クワイン―ホーリズムの哲学(丹治信春/1997/講談社)を読んでいます。 

 最初の部分をゆっくり読んでいましたが、本の返却日が近づいてきたので、少しスピードアップして、読めるところまで読んでいきたいと思います。

 1つ前のエントリで、「問題は、どのような構文論を規約(取り決め)として採用するか、ということだけなのだ」というカルナップの考えを示したあと、「なんだかクワインの反逆の気持ちがわかってくる気がします」と書きましたが、それは、カルナップの考え方に対する私自身の違和感があとで解消されるのだろうという期待としての「わかってくる」であり、まだ、クワインがどういう視点でカルナップの主張に異を唱え、ホーリズムにたどりついていったかは把握していない状態での感想です。

 ところが、先を読んでびっくりなのは、第一講義の段階のクワインは、カルナップ以上の意味で、「規約主義者」であったように見えるらしいのです。「ポアンカレがそう呼ばれるような意味で」という注釈つきで。

(スピードアップしようと思ったけれど、結局やっぱり、とばした部分も触れないわけにはいかないということに、書き始めてから気づくのであった。)

 クワインは、カルナップの『構文論』について講義を行ったわけですが、丹治さんが言うには、その第一回目の講義が、カルナップに傾倒していたクワインがホーリズムに至るまでの大事な中継地点になっているように思われる、とのこと。

 というのも、この講義は「カルナップについて」の講義でありながら、カルナップの思考法とはかなり異質な、独自の発想を展開しているらしいのです。クワインの意図としては、カルナップの考えを別のやり方でさらに発展させるための独自の試みだったのだろうけれど、その試みのなかに(ホーリズムという考えを提示したことで有名な論文)「経験主義の二つのドグマ」へと連なるアイディアが胚胎されているように思われる、と丹治さん。

 ということを具体的に考えるためには、ア・プリオリ/ア・ポステリオリ、分析的/総合的について確認しておかなければなりません。

 「ア・プリオリなもの」というのは経験に基づかずに知られるもの、「ア・ポステリオリなもの」とは経験に基づいて知られるもののことであり、 「分析的」な真理とは、その命題に現れることばの意味だけによって、その命題が真であることが決まってしまうような命題のこと、「総合的」な命題は、ことばの意味だけによっては真であるか偽であるかが決まらないような命題のことです。このあたりはカントに由来する用語であり、実際、この本でもカントが出てきます。ちなみに、のちのちクワインは、「分析的/総合的」という区別そのものに反対することになります。

 クワインは第一回目の講義において、「ア・プリオリな命題はすべて分析的であるか」という問いを立てましたが、これはもともとカントが立てた問いであり、そしてカントはこの問いに否定的な答えを与えました。つまり、「ア・プリオリであるのに分析的ではない命題、ア・プリオリな総合命題が存在する」と。ア・プリオリな真理のうち、論理的な真理は分析的であるが、しかし、例えば数学的な真理は、総合的なのだ、と。


 ・・・やっぱり、スピードアップして考えられるところではないですねぇ・・・


 1つ確認しておきたいところは、カントは18(〜19)世紀の人だということ。つまり、カントが亡くなってから100年以上たって、『プリンキピア・マセマティカ』が出版されたことになります。カントの時代と、20世紀とでは、「論理学」のパワーに雲泥の差がある。

 現代論理学をもってすれば、数学のすべてを論理学に還元しようとする企てが、かなりの現実性を帯びてくる。もし、その企てが成功すれば、そしてもし、論理的な真理は分析的な真理であるとすれば、数学的な真理はすべて分析的真理である、ということになり、ア・プリオリな総合命題をめぐる厄介な問題は、解消されることになる・・・というわけです。

 そうそう、最近、“解消”という言葉がよく出てくるし、よく使います。この言葉をきくと、デューイの二元論批判/河村望による訳者あとがきのことを思い出すのでした。
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