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カルナップの『構文論』(4)/言語の選択にモラルはない

 クワイン―ホーリズムの哲学(丹治信春/1997/講談社)を読んでいます。 

 1つ前のエントリで、実質話法と形式話法について見ていきました。ざっと復習すると、言語外にある“何か”に関する絶対的真理を主張しているように見える実質話法は、それと等値な形式話法に翻訳することによって、実は問題は構文論に関わることだということがわかる、というのがカルナップの考えでした。

 この考えをすすめていくと、「言語の選択は、任意の規約(取り決め)の問題である」という主張につながっていくことは容易に推測できます。つまり、問題は、どのような構文論を規約(取り決め)として採用するかであり、どのような構文論が<正しい>のか、という問題は存在しないのだ、というところにつながっていくのも頷けます。
 
 いかなる言語を選択するかは、任意の規約(取り決め)の問題であるというのは、カルナップの一生を通じての考えだったそうです。つまり、どのような言語でも、もしそれが便利であるならば(あるいは、便利でなくてもそうしたければ)、それを採用すればよい、「言語は(構文論は)かくあらねばならぬ」という「モラル」は存在しない、と。どんな言語でも許容しようというこの態度を、カルナップは「寛容の原理(Principle of Tolerance)」と呼んだのだそうです。

 ときいて私が思い出したのは、公理系のことでした。>無矛盾ならばなんでもよいのか

 やっぱり私は実在論者なのかなぁ、なんてことも思うわけなのですが、その実在論をめぐる議論さえ、カルナップの考え方でいくと“解消”されてしまうらしいのです。

 この観点からすれば、例えば物体的対象の存在をめぐって、「物体は認識者と独立に存在する」と主張する「実在論者」と、「物体とはセンス・データからの構成物にすぎない」と主張する「現象主義者」との対立は、「物−語」を原初記号とするような言語を採用するか、それとも、「物−語」は「センス・データ−語」を使った定義によって導入されるような言語を採用するか、という、言語の任意の選択の問題にすぎない、ということになる。

 (p44〜45)

 数について異なる主張をしていた前回の2人の哲学者A、Bも、それぞれ異なる構文論を採用すればよい、ということになります。コミュニケーションのためには共通の言語が必要だが、その場合でも、問題は、どのような構文論を規約(取り決め)として採用するか、ということだけなのだ、と。

 なんだかクワインの反逆の気持ちがわかってくる気がします(内容はまだ把握していないけれど)。

 とにもかくにも、カルナップの『構文論』は、「検証可能性」によって「有意味性」を判定するというのとは全く別の観点から、なぜ哲学の問題は言語の問題であると考えなければならないのか、について明快に説得力をもって指し示すものであったようです。

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