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数学と数学教育
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カルナップの『構文論』(3)/「実質話法」と「形式話法」

 クワイン―ホーリズムの哲学(丹治信春/1997/講談社)を読んでいます。 

 前回は「準―構文論的」な文についてみていきましたが、カルナップはこのようなあたかも対象そのものについて語る語り方を「実質話法(material mode of speech)」と呼び、それに対応する構文論的な文を使った、明白に記号について語る語り方を「形式話法(formal mode of speech」と呼んだそうです。そして、哲学者達が「形式話法」ではなく「実質話法」で哲学的研究を行おうとするとき、様々な混乱や、場合によっては矛盾を生じる危険があることを指摘したそうです。

 例としてはまず、「不可能性」があげられています。たとえば、

 太郎は二冊の本をもっており、花子は三冊の本をもっているが、しかし二人のもっている本を合わせると七冊になる、というのは不可能なことだ

という文は、太郎や花子や本について(と書いてありますが、私は「本の数について」の言明だと思いました)、その可能なあり方や不可能なあり方などを語っているように見えるけれども、これを、

 太郎は二冊の本をもっており、花子は三冊の本をもっているが、しかし二人のもっている本を合わせると七冊になる

という文(記号)について、

 その文は矛盾している

と語る構文論的な文と等値なのだ、とカルナップは考えたらしいのです。

 また、2人の哲学者A、B(←私が勝手に設定)がいて、

A: 数とは、物からなるクラス(集合)からなるクラスである
  (例えば、二という数は、二つの要素をもつあらゆる集合を集めた集合である)

B: 数とは、ある特殊な、原初的な(別の対象から構成されるのではない)対象である 

と言うとき、これらは「実質話法」であり、<数>という対象がいかなる本性をもっているのかという点についてこの2人の哲学者は対立していて、少なくとも一方は(場合によると両方が)、数という対象について誤った主張をしているように思えるけれども、これらの主張は

A´: 数―語は、二階のクラス―表現である
B´: 数―語は、○階の表現である

という形式話法に翻訳することができ(等値であり)、数―語に関する構文論的な規則について語っているのだ、ということらしいのです。

 私は、A→A´はいいとしても、B→B´については疑問符とびまくりでした。しかし、いずれにせよ「構文論的な規則について語っている」ということについては、ひとまず納得することにします。つまり、われわれが数について語るとき、「数」の存在をあたりまえのこととして、言語外にあるその対象そのものについて語っているつもりでいるけれど、実は、「われわれはどのようなものに数という語を与えているのか」ということについて語っているにすぎない、というような、そんな感じなのだろうととりあえず理解しました。

 カルナップは、準―構文論的な述語による実質話法は決して使っていはいけないと主張したかったわけではなく、これらの話法は、構文論的な述語を使った形式話法の、いわば省略形なのだ、ということを念頭に置いておかないと、無用な混乱が生ずるのだ、ということが言いたかったようです。

(つづく)
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