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数学と数学教育
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カルナップの『構文論』(2)/準―構文論的な述語

 クワイン―ホーリズムの哲学(丹治信春/1997/講談社)を読んでいます。 

 「準―構文論的」な述語を見ていく前に、ここで考えたい述語の区分を確認しておきます。(p38)

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〔記号―述語〕

  ・構文論的な述語
      「漢字三文字からなる」
      「数―語である」
      「物―語である」

  ・構文論的でない記号―述語
      「日本一高い山の名前である」


〔記号―述語でない述語〕

  ・準―構文論的な述語
      「数である」
      「物体である」

  ・それ以外の述語(普通の述語)
      「日本一高い山である」
      「赤い」
      「丸い」

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 さて、「準―構文論的な述語」とは何かというと、次のように定義されています。(p38)
ある(記号―述語ではない)述語「F」が「準―構文論的な述語」であるとは、述語「F」に次のような意味で対応するような、ある構文論的な述語「G」が存在する、ということである。その「対応」とは、対象aについて、「aはFである」と言うことと、その対象の名前「a」について、「『a』はGである」と言うこととが、論理的に等値になる(互いに他方の論理的な帰結になる)、という仕方での対応である。
 たとえば、「五は数である」という命題は、「数―語である」という構文論的な述語を使った「『五』は数―語である」という命題と、論理的に等値になる、ということらしいのです。

 ここをまだ正確に理解できていない(納得できていない)のですが、とりあえず、ほぐしてこんなふうに考えてみました。

 まず、「五は数である」という命題は、「五」という記号についての述語ではないので(「五は漢数字である」といったような命題ではないので)、記号―述語ではないということはとりあえず言えそうです。そして、『五』を、ある数に五という語を与えるものとしての述語としてとらえると、「『五』は数―語である」という構文論的な命題ができ、これらが論理的に等値なので、「数である」という述語は、準―構文論的な述語だ、というような感じでしょうか。

 つまり、「五は数である」という文は、五という対象について、それは数という種類の対象なのだ、と言っているように見えるけれども、この文は「『五』は数―語である」と言い直すことができることから、五という(数学的)対象について何かを述べているのではなく、「五」という名前について、その構文論的な特徴を述べているにすぎないのだ、ということらしいのです。

 カルナップが言おうとしていることを正確に理解できているかどうかはわかりませんが、この話が実在論に関わっていくことの予感はします。五という数は、五と名づけられる前に存在するとしておかないと、「五は数である」ということはできないから。五と名づけられる数は、記号を与えられる前に存在している、と。そうすると逆に、そのもの(五と名づけられる以前に存在している、五に対応する数)に「四」という名前をつけてもいいわけで(ちょうど五画だし)、ということは結局、「五は数である」という命題は、「五」という記号について語っているにすぎないということではないか?

 結局、哲学者達が言語外の世界について語る文だと見なしている多くの文は、そんなふうにして、実は「準―構文論的な文」なのだ、とカルナップは主張したらしいのです。

例えば、「五は物ではなく数なのだから・・・・・・」というような言い方がなされる。そして、そのとき哲学者達は通常、「物」とか「数」といった表現についてではなく、そのような表現によって呼ばれる対象そのものについて、語っているつもりでいた。しかしカルナップによれば、彼らは、実は「物」とか「数」という表現について語っていたのである。つまり、「物」とか「数」という表現のもつ、構文論的な特徴だけによって真偽が決まるような、言明をしていたのである。
  (p41)


(つづく)
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