TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< クワインはカルナップが大好きだった。 | main | カルナップの『構文論』(2)/準―構文論的な述語 >>

カルナップの『構文論』(1)/言葉の「使用」と「言及」

 クワイン―ホーリズムの哲学(丹治信春/1997/講談社)を読んでいます。 

 というわけで、カルナップの『構文論』をのぞいてみます。まず、言葉の「使用」と「言及」について考えます。なお、本のページとしては前にもどることになります(クワインの博士論文に関わる話のところ)。

 たとえば、「富士山」という名前は、

   富士山は日本一高い山である。

という文においては「使用」されており、

   「富士山」は漢字三文字からなる。

という文においては「言及」されています。この区別は、「富士山」の場合においては、特にややこしいこともなさそうです。しかし、次のような推論の場合は、言葉の使用と言及の混同が誤った結論を導いてしまうというのです。

 2/3 は既約分数(それ以上約分できない分数)である。
 しかるに、2/3と4/6は同じ数である。
 ∴4/6 は既約分数である。

 この場合、「既約分数」というのは、2/3(=4/6)という数の特徴づけのように見えるけれども、実際には「2/3」という表現(名前)を特徴づけている、というわけです。ちなみに私が突っ込みたかったのは、2行目を「しかるに、2/3と4/6は同じ大きさの数である」とすればよかったんじゃなかろうか?ということなのですが、ドイツ語や英語だとどうなるんだろう、あるいは2:3と4:6だったらどうなるんだろう・・・?といろいろ疑問がわいてくることは確かです。いずれにせよ「・・・は既約分数である」というのは、表現についての特徴づけということは納得できます。

 だから、上記推論の1行目は、より正確に表現すると、

   「2/3」は既約分数表現である。

ということになるのでしょう。

 そんなふうに、実は数学では使用と言及との区別はかなりいい加減になっていて、『プリンキピア・マセマティカ』も例外ではない、ということが、クワインの博士論文についての話のなかでちょっと出てくるのです。

 で、カルナップにもどりますれば、

   「富士山」は漢字三文字からなる。

の中の「漢字三文字からなる」は、富士山という山にあてはまる述語ではなく、「富士山」ということば(記号)にあてはまる述語なので、これを「記号―述語」と呼ぶことにして、さらに、様々な「記号―述語」のなかで「構文論的な述語」と呼ばれるものを区別することを考えるらしいのです。

 どういうことかというと、ある記号―述語が「構文論的な述語」であるのは、任意のある記号にその記号―述語があてはまるかどうかが、その記号が指示する対象(「富士山」であれば、富士山そのもの)のあり方に拘わりなく、<文字づら>としての記号そのものの性質や関係だけによって決まる場合らしいのです。たとえば、「漢字三文字からなる」という述語は、構文論的な述語ということになります。

 もともと<記号についての述語>を問題にしているのだから、記号―述語って、みんな構文論的述語なんじゃないか?と思う人が出てくるかもしれないけれど、たとえば「日本一高い山の名前である」という述語を考えると、「名前である」と言っているので、記号―述語ではあるけれど、ある記号にこの述語があてはまるかどうかは、その記号が指示する対象が日本一高い山であるかどうかに左右されるので、こういう述語は構文論的な述語ではない、ということになるようです。ふむふむ。

 で、このような述語についての分類が図にまとめてあるのですが(p39)、記号―述語ではない述語の中に、「準―構文論的」な述語があり、そのような述語が、「形而上学」の温床となり、哲学における様々な混乱のもととなる、とカルナップは考えたらしいのです。

(つづく)
論理学 | permalink
  

サイト内検索