TETRA'S MATH

数学と数学教育
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無矛盾ならばなんでもよいのか

 遠山啓著作集<数学論シリーズ4>『現代数学への道』を、倉田令二朗の解説をガイドにしながら部分的に読んでいます。きょうは、遠山啓の本文「公理と構造」について解説してあるところをみていきます。まずは遠山啓の本文を読みます。

 ヒルベルトの公理は、ユークリッドの場合のように、だれも疑うことのできない自明な命題という意味ではなく、いちど分解された要素を組み立てる一つの設計図といえるものでした。したがって、内部矛盾をふくんでいないという最低限の条件を満足させていさえすればよい、ということになります。そういう意味では自由奔放に公理を設定することができます。ヒルベルトは公理をそのように見直すことによって、数学者の構想力を思いきって解放した、と遠山啓は説明しています。

 しかし、この「自由」を濫用すると、一人ひとりの数学者が勝手に別々の公理系を考え出して、一人一人がぜんぜん別の数学を研究する、という可能性もないわけではないということになります。実際にヒルベルトの公理主義が現れたころに、そのような危険について警告する人もいたそうです。

 けれども、その後の数学の発展は大勢からみると、そのような危険に落ち込まないですんだ、それはなぜなのか?

 についてみていくまえに、少しもどって、遠山啓が示している建築の例を考えます。

 たとえば、建築家がある建物を設計するときに、自分の構想力を大胆に駆使して思い切って新しい建物を設計しようする点については完全な自由が与えられています。一方で、力学の法則にしたがって設計をしなければならないという制限もうけています。極端なことをいえば、いくら自由であっても、中空にうかんでいて、柱のない建物を設計するわけにはいきません。この建築家のとっての力学の法則にあたるのが数学者にとっては論理の法則だ、というわけです。

 とはいえ、力学の法則にしたがったうえで自由に建物を作ったとしても、よい建築とわるい建築の区別はあり、美しい建築とみにくい建築を見分けることもできます。それらを区別するものは力学の法則ではありません。なぜならば、どちらも力学の法則にしたがっているのだから。それらの区別は建築物の使用目的や美学的なものさしによって定まってくるはずのものだろう、と遠山啓は語ります。
 
 そして、数学者の設定する公理系についても同じことがいえるだろう、と続けます。建築の例では「使用目的や美学的なものさし」という言葉を使っていますが、数学に関しては、それに加えて、「数学者はわれわれをとりまいている自然や社会に内在している法則に似せて公理系を設定した」とも書いています。だから、上記のような「一人一人の数学」になる危険に落ち込まないですんだ、数学者は与えられた自由を濫用しなかった、と。そして、ノイマンのエッセー『数学者』からけっこうな行数の文章を引用しています。

 ノイマンは、「数学者やその他の多くの人間は,数学が経験的な科学ではないこと,また少なくとも経験的な科学の技巧からはいくつかの決定的な点で異なったやり方で研究されていることに同意するであろう。それでもやはり数学の発展は自然科学と密接につながっている。現代数学の最良のインスピレーションのあるもの(私は最良のものと信じている)は自然科学に起源をもっている。」というようなことを語っているのです。

 遠山啓は、ノイマンがいうところの数学の二重性を、次のようにまとめています。

(1) 論理的に矛盾がないかぎり、いかなる公理系を設定してもよいという自由。
(2) 公理系はわれわれの住んでいる世界のなかにあるなんらかの法則に起源をもっている。

 そして、こう語ります。

人間がいくら自由奔放に空想をたくましくしても,しょせんは自然の一部分なのだから,自然の大法則から大きく逸脱することはできない,といってタカをくくる人もいるだろう。この二重性に統一を与えようとして,いろいろのうまいコトバを発明することはできるだろう。しかし,そういうことはたいして意味のあることではない。
ここで必要なのは,数学が容易には融合しにくい二重性に貫かれているということであり,むしろ,この二重性の均衡の上に立っているということである。しかも,その均衡は静的なものというよりは動的な均衡である。一方が優越すれば,他方がそれを追い越そうとつとめる。そういう形の動的な均衡であるといえる。

(p.36)

 私は、ノイマンが上記のようなことを語っているとはこれまで知らなくて、なんだかほっとするものを感じました。また、遠山啓の話をきいていると、「数学って動くものなんだ」と感じて、これまたほっとするものを感じます。

 と同時に、遠山啓の「経験主義批判」を思い出すのでした。「経験」とは何か。「構成」とは何か。数学するのはだれなのか。

 さて、倉田令二朗の解説に目を移すと、この一節の最後に書いてあることが印象的だったので、引用しておきます。

ノイマン自身は,最良の数学的インスピレーションは自然科学的起源をもっていることを強調しているが,遠山さんも公理系は客観的法則性を表現したものにもっとも価値をおいているようである。そして,ブルバキの「数学の建築術」を紹介しつつ数学的概念の物質的起源にさえふれている。
ここで断わっておくが,遠山さんは一度も公式主義的唯物論者であったことはない。彼が私自身に語ったことがあるが,戦前型公式マルクス主義者の一部に,応用数学=唯物論,純粋数学=観念論という図式をなんとなく持ち出す傾向があることを強く批判していたことがある。

(p.270)

 あともう1つ今回印象に残ったのは、遠山啓の本文の中で引用されている、ヒルベルトがフレーゲにあてた手紙のことです。ヒルベルトの公理がどのようなものであったかということを示すための引用で、さらっと書いてあるだけなので、遠山啓が引用したそのこと自体はあまり気にならないのですが、この手紙は何年に送られたものなのか、ヒルベルトはどのような思いで“フレーゲに”この手紙を書いたのか、フレーゲはどのような思いでヒルベルトからの手紙を受けとったのか、ということが気になりました。
 

 

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