TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< ヒルベルトは最初から2次的な構成だったことと、無定義の意味 | main | 無矛盾ならばなんでもよいのか >>

現代数学は、本来は素人にわかりやすいはずのもの

 遠山啓著作集<数学論シリーズ4>『現代数学への道』を、倉田令二朗の解説をガイドにしながら部分的に読んでいます。

 前回のエントリでは、近代数学から現代数学への流れふまえて、現代数学の構成的性格をみていきました。私はこれまで「分析−総合」を近代数学の方法として捉えていたのですが、遠山啓が語る現代数学の構成的性格のことを意識するようになると、「分析−総合」は、「分析−再構成」として、むしろ現代数学の方法のように思えてきます。

 つまり、近代数学における「総合」は、もとにもどすという意味での還元主義だったけれども、現代数学の場合は、もとにもどすのではなく、人間が“自己の欲する形”に再構成するという意味での「総合」。それを最初から「構成」と考えるのか、そのまえにはやはり「分析」があると考えるのか、特にヒルベルトの場合、はじめから「何か?」を問題にしない2次的な構成であったので、そこに「分析」はあるのかという疑問はぬぐえませんが、倉田令二朗の「無定義というのは陰伏的な定義であり、表象なしに一歩も進むことはできないのが実情」という解説には、頷けるものを感じます。

 そして、倉田令二朗の解説を読みながら、もう1つ発見したことがあります。発見というか、思い出したというか。そもそも、現代数学は、近代数学よりわかりやすい(はずだ)、ということを。

 現代数学は、19世紀までの数学によく通じている人たちにとっては違和感が強いものだったけれど、別の面からみると、数学の専門家でない素人にとっては、現代数学のほうがわかりようということも、かえってあるように思われる、と遠山啓は語っているようなのです。集合という概念も、微分積分のような予備知識を少しも必要としない考え方であり、それは子どもでもわかる、ごくありふれた考えにすぎない、と。
現代数学のもっている大きな特徴は,数学という学問のもっている行動半径を,これまでとは比較にならないくらい拡大したことであろう。これまでは,数学の分野にはとても入れてもらえないようなものまで数学の仲間に入ってきた。そのわけは,一言でいうと,人間の構想力を思いきって自由にしてしまったからだといえる。

  (p12)

 現代数学の考えかたは、あまりにも専門化してしまった数学を、もういちど常識に引きもどすというような一面をもっている。そして、その“常識にもどる”ことは、“構想力の解放”につながる。なぜかというと、<集合−構造>のモデルとしての<分析−再構成>は、日常生活のあらゆる部分において見出されるから。合成化学、料理、建築、音楽、絵画、・・・・・・

 このたび久しぶりに思い出したのですが、私もかつて、戦後の教育運動の社会的、思想的背景・3 というエントリのなかで、

 レヴィ=ストロースの何がえらかったって、ものすごーく久しぶりに数学の言語が人文系の学問にも十分適用可能だということを示したことであり、

と書いたことがありました。でも、このエントリでは、「デカルトやライプニッツの頃までは、哲学と自然科学は一体でした」とも書いており、「ものすごーく久しぶり」のその期間はいつなのか?ということと、何と何が分かれたのか、について、もう一度考え直さないといけないなぁとこのたび思いました。また、数学のロマンティックで書いた山口昌哉の言葉も思い出しています。このあたりはいずれまた。

 さて、遠山啓は、何を語るときにも、わかりやすい身近な例で語ってくれますが、<分析−再構成>についての例は、比喩というよりはまさに例なのであり、生活の中に<集合−構造>のモデルはたくさんあるのでしょう。

 というような話をきいていると、現代数学を初等数学教育に取り入れることって、それほど難しくないのではないか、むしろ、そちらのほうが好ましいのではないか、とさえ思えてきます。しかし、遠山啓は、初等数学教育を現代数学“から”始めることには強く反対して、微分積分を高校までの目標とする数学教育体系を作った(作ろうとした)わけです。

 このあたりをどう考えたものか・・・と途方に暮れそうになると、森毅の声が聞こえてくるのでした。

(つづく)

遠山啓の「量の理論」 | permalink
  

サイト内検索