TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ヒルベルトは最初から2次的な構成だったことと、無定義の意味

 遠山啓著作集<数学論シリーズ4>『現代数学への道』を、倉田令二朗の解説をガイドにしながら部分的に読んでいます。

 現代数学の構成的性格を考えるために、近代数学にさかのぼります。

 近代数学の起こりを語るとき、まず出てくるのはガリレオであり、動力学の基礎をきずいたガリレオにとって中世数学はもう役に立たなくなったと、遠山啓は語り始めます。変化と運動を正面からとりあつかうことのできる新しい数学が必要となったが、ガリレオの時代にはそのような道具はまだみつかっておらず、それを創り出したのは、デカルト、ニュートン、ライプニッツ ―ー 変数としての文字、変数と変数との間の相互関係を座標という手段によって幾何学的なグラフとして表現すること、そして微分積分学 ――  であった、というわけです。

 そして近代数学のキーワードとして微分方程式が出てきます。遠山啓の量の理論を考えるとき、微分方程式についての考察は必須だということまでは認識しているのですが、なかなか取り組めずにいます。とにもかくにも、この微分方程式というものは「決定論的世界観」を数学的に表現するものであり、当時の最大の関心事は自然現象の忠実な模写と記述だった、ということは頭に入れておきます。

 というような近代数学の立場をこえて、自然そのものを人力によって解体し、それを自己の欲する姿に再構成するという意欲が表面に出てくるようになると、微分積分や微分方程式はもはや万能ではなくなり、現代数学が生まれることになります。ベルはその始点をガウスの整数論においているとして、ガウスの整数論が現代数学の重要な方法を萌芽的にふくんでいるという点からすればそれは正しい、と遠山啓は語っています。

 遠山啓は近代数学のところで

微分方程式は,人間の外にあって人間の意志の入りこむ余地のない遊星法則の説明にはまことに打ってつけの道具であった。

(p.167)

と書いていますが、ここでいう自然現象とは、“人間の外にあって人間の意志の入りこむ余地のないもの”ということになるのでしょう。自然は人間の外にあり、人間は自然の外にあると考えているところが印象的です。なお、先走ったことを書いてしまうと、遠山啓が現代数学の限界を語るときに出してくる“開かれた動的な現象”の例は、「生命」と「社会」でした()。これは、人間も含む、人間こそを含む“自然現象”なのではなかろうかと感じています。

 さて、遠山啓の説明によれば、現代数学は「構成的」であるが、それは何もないところから人工的に何かを生み出すということではなく、もともとあるものを解体したのちに、それらの要素を“人間の欲する姿に”再構成したものという意味での「構成的」ということになります。つまり、再構成される場合の1次的構造は、客観的な世界の直接的模写である、と。倉田令二朗は、遠山啓のあげた例のほかに、「カントル自身やデデキンとによる実数論も,その典型というべきだろう。」と書いています。

まず素朴な1次的構造としての実数連続体から出発し,これをいったんばらばらな元からなる集合に解体したうえで再構成される。<自然数→有理数→コーシー列>,または切断による実数の構成によるものだが,こうして得られた実数体は厳密な論理的性格をもった構造となって再生するのである。

(p.266)

 再び遠山啓の本文にもどると、現代数学の説明のあと、ヒルベルトが登場してきます。ヒルベルトの『幾何学の基礎』は、「机、イス、ビールのコップ」のたとえ話からもわかるように、はじめから第2次的な構造として幾何学を考えたものであり、“何か”が問題なのではなく、“それらがいかに関係するか”、その関係のしかたが問題となるものでした。なお、「もちろん,このような考え方はけっしてヒルベルトに始まったものではなく,すでに射影幾何学の双対の原理のなかに鮮やかに表れているといえる」という説明も加えられています。

 遠山啓はヒルベルトの『幾何学の基礎』について語ったあと、この一節を次のようにまとめています。

直観的で感性的な幾何学でさえ,このような構造的な方法が成功したとすると,より抽象的な他の部門ではなおさら容易であろう。そのようにして,ヒルベルトの方法は代数学・位相数学・解析学など数学の全領域にひろがっていった。このようにして構造を中軸とする現代数学が誕生したのである。

(p.170)

 さて、今度は倉田令二朗の解説に目を移してみると、ブルバキについての注釈があります。この話はヒルベルトの“無定義概念”に言及するところから始まり、全数学を集合上の構造として再構成しようとしたのがブルバキであることの説明のあと、“無定義”というのは実際には“陰伏的(implicit)に定義される”ということであると語っています。

たとえば,代数構造A上の演算は,集合論における写像
     A×A → A
の一種であり,位相空間X上の開集合の全体はベキ集合P(X)のある部分集合で,それらはいくつかの公理によって規定される。写像や開集合の中身が問題なのではなく,公理によって規定されるかぎりにおける写像や部分集合の集合だけが問題になるのであるから,この規定は陰伏的(implicit)な規定ということができる。土台になる集合論自体は帰属関係∈を無定義述語とする公理論として与えられる。∈や関数やベキ集合に対するわれわれのイメージ,表象は必要とされないという意味は,論理的に効いて来ず,理論構築にとってさしあたりどうでもよいという意味であって,表象なしには一歩も進むことはできないのが実情である。

(p.266〜267)

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