TETRA'S MATH

数学と数学教育
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関数の歴史的意義、ブラックボックスと“心眼”

 遠山啓著作集<数学教育論シリーズ0>『数学教育への招待』に、「関数とはなにか」という文章が収められています。初出は『ひと』1975年4月号なので、遠山啓の第三期()の発言ということになります。
 
 遠山啓はここで、関数は数学の主役である、と語っています。また、数学は言語と多くの共通点があり、数学はとくべつな言語であるといってもいいくらいだ、とも。ただし、日本語や英語のように長い年月をかけて多くの人々がこしらえあげてきた自然言語ではなく、エスペラントのような人工言語に似ている、と。

 4000〜5000年の数学の歴史をひもといてみると、はじめに考えられたのは、長さや面積、体積のような量、1,2,3,……という数、それから、三角形や四角形のような図形だった。これはどちらかというと、名詞的な考え方だった。もちろん、“たす”や“かける”といったような“はたらき”がまったく考えられなかったということではないが、それはあくまでも脇役であって、主役ではなかった。

 数学のなかに動詞的な“はたらき”が主役のひとつとして登場してきたのは17世紀になってからであり、それが“関数”だった。なお、関数(function)という用語がはじめて登場したのはライプニッツの論文においてであり、それ以来、この関数は数学の主要な柱のひとつとなった。

 なぜ、関数という考えは17世紀になってはじめて生まれたのかといえば、この時期が「科学革命」の時代といわれるものであったから。惑星の運動法則が明らかにされ、力学の基礎がうちたてられた。自然界には数多くの量的因果法則が潜んでおり、それを明らかにするのが自然科学の主要な任務のひとつとなった。たとえば、落体の法則を例にとると、落下の時間を測ることで、落下した距離を知ることができる。このように、原因から法則(はたらき)を使って結果を出すことができる。

 数学という学問の立場からみれば、量的因果法則は関数のかたちに書き表されることが多く、未知の因果法則の探求は、未知の関数の探求というかたちをとることが多い。つまり、数学のなかに登場してきた関数は、自然探求のための強力な武器となった。

 さて、そんな関数を幼いときから理解して使いこなすようになれたら、それは望ましいことであるが、これまで関数は子どもたちにわかりにくいものであった。その理由の1つとして、関数が“もの”ではなく“はたらき”であり、“名詞的”ではなく、“動詞的”なものである、ということがあげられる。子どもの目のまえにもってきて、“こういうものだ”といって説明することが困難だったからである。

 しかし、困難ではあっても、不可能ではない。きまった“はたらき”をもっていて、関数を説明するのに都合のよいものは、探せば、ある。多くの機械もしくは装置は、そのようなものである。たとえば自動販売機。切符を売るための自動販売機は、お金を入れると切符が出てくる。これも、原因(お金)から一定のしかたで結果(切符)を生み出す“はたらき”をもっている。このようなものを、工学者は“ブラック・ボックス”とよんでいる。

 以上が、「関数とはなにか」前半のおおまかな要約です。なお、いつものごとく、文章の順番を入れ替えて我流にまとめています。このあとは、記号の威力の話になっていきます。

 一方、著作集<数学論シリーズ5>『数学つれづれ草』のほうには、「関数と暗箱」という文章が収められています。初出は『数学教室』1966年12月号で、原題は『現代数学への道11』。こちらは遠山啓の第二期の発言ということになります。関数の歴史的意義について、S.ボホナーの文章と、関数と知らずに関数を研究していた例として、建部賢弘の話が出てきます。

  遠山啓著作集<数学論シリーズ5>『数学つれづれ草』所収「関数と暗箱」から、S.ボホナーの叙述をのぞいてみます(引用ではなく、文章の順序も入れ替えての要約です)。

// 関数の概念には2つの主要な解釈がある。1つは“対応”、もう1つは“関係”。しかし、事実においては関数の概念は定義できないし、そのつもりの定義も同語反復的である。
 関数は近代数学の際立った特徴をなしている。ギリシア数学は、その最奥の構造においてまったく関数を欠いていたし、関数へのいかなる志向も欠いていた。その欠除は全面的な静止性を意味する。ギリシア数学は外見上、解析的であるよりは幾何学的であり、内的構造からみると、操作的であるよりは表現的であった。
 物理学に関しては、関数は自然における状態・事象・変化を明確にするのにふさわしい数学的表現である。そして、物理学の文脈から出てくる数学的記号は物理学の数学的関数が数学的に整合しているばかりではなく、物理的にも意味があり、生産的であるような“科学の言語”の文字と綴りである。 //

 「ボホナーの以上の叙述は多くの人びとを納得させるだろうと思われる」として、遠山啓はこのあとブラック・ボックスの話を始めます。f(x)の説明は割愛するとして、先を読んでみると、

ここで“黒い”という形容詞を使ったのは箱のなかのからくりが外からは見えない,という意味である。これに反して,中のからくりの見通せるものを white box とよんでいる。つまり,“黒い箱”とは,その機能だけが明らかになっている装置であり,“暗箱”といわれている。しかし,“黒い”という形容詞をもう一つの意味に使いたいのである。じつはそのほうが重要なのである。“黒い”の第2の意味というのは,“忍者の黒装束”の“黒い”である。忍者の黒装束は自分の身体の中身を隠すためのものではなく,身体全体を丸ごと隠すためのものである。ここでいう“黒い箱”というのは,箱全体を丸ごと隠すという意味をもっているのである。

と遠山啓は語ります。そうしてこのあと、“透明人間”の話を出しています。人の影はどこにも見えないのに、ドアが開き、回転椅子がひとりでに回って机の引き出しが出され、書類がひとりでに持ち上げられる。そのとき、肉眼で見えるのは、“機能”だけである。そのはたらきを起こしている原動力に当たる透明人間は見えない。しかし、透明人間がその背後に存在し、活動していると考えることによって、一連の現象を説明することができる。同じことが暗箱についてもいえる、と。

「たとえば、宛名をかいたハガキをポストにいれると、それが宛名の人に配達される。これも一つの暗箱であるが、自動販売機のようにはっきりと肉眼では見られない。それは物体というより、郵便制度という人間のつくった組織が一つの暗箱になっているからである。
 関数という考えの重点は肉眼で見える暗箱ではなく、この“透明な”暗箱のほうにあるといってよい。だから、それを発見するのには時間がかかって、ライプニッツ以前にはだれもこの“透明な”暗箱に気づかなかったのである。」(引用ではなく要約)

 そして遠山啓は、和算には関数概念がなかったことを、平山諦の言葉を引いて説明しています。しかし、今日でいう関数が和算家によって研究されていなかったという意味ではない、と続けます。現に建部賢弘は(sin^(-1)x)^2の無限級数展開を導き出しているくらいであり、彼は関数と知らずに関数を研究していたということになる、と。

「y=f(x)の f は、肉眼には見えないから、そのつもりになってみなければ見えないはずものである。日本の大数学者の建部賢弘にも、それはできなかった。しかし、関数を教わった今日の高校生にはそれができる。関数を知らない人にとっては、y=x^2 をみると、それはたんなる等式にすぎないし、大部分の高校生は等式としか考えていないだろう。関数というからには、xとyとのあいだに見えない装置---透明な暗箱---を想像できなければならない。」(要約)

 そしてこのあとはまた、文字記号の威力の話になっていき、最後で遠山啓は、この文章を次の一節で締めくくります。

関数の本質は,機能だけが肉眼で見えるとき,その背後にあって機能を生ぜしめる原動力となる実体を規定して考えることのできる“心眼”を養うことにある,といえよう。
しかし,広く考えてみると,このような思考の習慣は関数だけではない。たとえば,原始時代の神話なども一つの機能に,それを引き起こす実体としての神を考え出している。たとえば,雷電の現象の背後には,太鼓をもって雲の上を走りまわる雷神を想像し、暴風の背後には大きな袋をかついだ風神を想像する。これは機能の背後に実体を想定する思考習慣の表われだと考えてもよかろう。つまり,これも透明な暗箱の一種とみても的はずれではあるまい。

(注) 細かい話ですが、遠山啓の著作集の二重引用符は縦書きと似たような感じで、左上と右下についているのですが、ブログで引用するときには「“○○○”」と示します。


〔2018年4月7日〕  分割して書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

 

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