TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 小島寛之をきっかけとして考える、遠山啓と3つの“‐ism” | main | 関数の歴史的意義、ブラックボックスと“心眼” (1) >>

実在論と科学教育論&算数・数学教育論のあれこれ

 実在論と反実在論という対比の中での自分の立ち位置について、約1年前に私のなかの実在論と反実在論のねじれ、半年前に科学的実在論の中での、自分の立ち位置というエントリを書きました。自分は実在論者なのか反実在論者なのかと自問してみたとき、かつては(ねじれを感じつつも)どちらかというと反実在論者だと思っていたのです。というか、反実在論者でいたかった。でもそれは反実在論というほどのものではなく、ある種の客観主義に対する違和感のようなものだろうとも思っていました。

 そして、フレーゲにとって「客観性」とはどういうことかをちょっとのぞいたときに、その違和感をもう少し解きほぐした形で言葉にすることができ、さらに、理科教育まわりの構成主義をのぞくことによって、もう一歩進めた形で言葉にすることもできました(>遠山啓のプラグマティズム批判の後半)。つまり私は、「算数・数学教育、科学教育は、何千年もの間にすぐれた学者たちがつくり上げた“真理”を、教師が系統立てて教える作業であってほしくない」と思っているらしい、とあのとき書いたわけです。

 ところが、上記の言葉は、ウィキペディアの構成主義(教育)の中の言葉を借りてまとめたものなのですが、あらためて読みなおすと、本来であれば「何千年もの間にすぐれた学者たちが“発見した”真理」とすべきところではなかったか、という疑問がわいてきました。もとの文章でも「自然科学者が長年にわたって築き上げてきた」と書いてあります。真理にはカギかっこがついていますし、一言一句にこだわるような文章ではないのかもしれませんが、少なくともこの文章を書いた人は、「真理を築き上げる」という言い回しに神経質にはなっていないということは言えるかと思います。

 そこで脚注に目をうつすと、“「物理教育は今」、『日本物理学会誌』、63(3)、2008”とあったので、日本物理学会誌第63巻第3号目次をのぞきにいき、「理科教育に何が起こっているのか?北村正直」で検索をかけました。そうしたら、リヴァイアさん、日々のわざというブログに行き着きました。「川端裕人さん? この方のお名前、最近、どこかで見かけたぞ・・・」と思いきや、高橋誠『かけ算には順序があるのか』を朝日新聞の読書欄で紹介された方ですね。なお、私は川端さんの紹介記事そのものは読んでおらず、メタメタの日再び朝日の読書欄で知りました。(別のところでも2回ほどお見かけした記憶がうっすらとあるのですが、定かならず・・・)

 直接たどりついたのは「理科教育と非実在論・相対主義についての「続き」」というエントリで、「続き」というからには前の記事があり、それが「理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ」です。私はニセ科学という言葉が苦手であり、“トンデモ”排除を目的とした科学教育議論にはあまり近寄りたくないので、どんなものかなぁと思って読み始めたのですが、「あまりに議論がナイーヴなのだ」と川端さん。あら、大丈夫かも、と思って読み進み、「続き」のほうの(1)〜(4)の流れに、なるほどまとめようと思えばこんなにシンプルにまとめられるんだなぁ、としみじみ思ったしだい。なお、私がニセ科学という言葉が苦手なのも、上記の「ある種の客観主義に対する拒否反応」と根を同じくするものです。

 しかし、以前も書いたように、ここで考えてしまうのは理科教育と算数・数学教育の区別です。そういえばダメットは、物理学と数学とでは、存在者の正当化によって求められるものが根本的に違うということを、説明能力という言葉を使って示していましたし(>数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか)、岡潔も数学と物理学の違いについて語っていました。>「ない」と「ある」と数学、痛覚。

 そもそも私は、算数・数学教育まわりで実在論の深い森にまで踏み込んだ議論というものを見たことがありません(あるところにはあるのかな?)。単純に考えれば、実在が問題となる対象がまず違うのでしょう。理科教育まわりでは原子や電子や電磁波であり、算数・数学教育の場合は、数や集合や関数といったものになるのでしょうし。

 で、遠山啓にとって実在とはなんであったかを考えるとき、やはり思い浮かぶのは「実在→集合→量→数」という図式で示される量の体系です。しかしこれは、クロネッカー―藤沢の数え主義の図式「神→順序→数」との対比で示されたものであり、実在論とからめて考えるのは筋違いな話のような気がしないでもありません。そこをあえてからめて考えると、この図式でいけば、量の体系において「数」は存在者として扱われていないように見えます。少なくともフレーゲのレベルでのプラトニズムには立っていない。

 遠山啓にとって、この図式の中での「実在」ってなんだろう?とあらためて考えてみました。たぶんそれは、外界(=自分の外)にあって、感覚機能で捉えられるもの、といったような意味合いなのだろうと私は理解しています。もっといえば、時間性か空間性をもっているもの、あるいはその両方をもっているものかもしれません。

 一方、「関数」については、まるでプラトニストのような発言を、遠山啓著作集に読み取ることができるのです。

(つづく)
科学論 | permalink
  

サイト内検索