TETRA'S MATH

数学と数学教育
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小島寛之が語る、「外世界」と「私」をつなぐ数学と障害

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 最後は、小島寛之が現在、再び遠山啓と向かい合っている課題であるところの、「障害」の問題についてです。

 遠山啓は、晩年には「障害児教育」に取り組みました(なお、小冊子『いま,遠山啓とは』においては、小島靖子さんの「遠山先生と障害児教育」という文章が載せられています)。小島氏いわく、なぜ遠山啓がこの問題に向かったのか、なんとなく現在の筆者には推測できる、なぜなら筆者も現在、同じ問題に行き着いたからだ、と。

果たして「障害」とは何だろうか.たしかに,簡単な数概念や数の計算,文字式や図形の性質の理解が困難な学習障害(LD)の人を見かける.しかし,数学というものが,「現実を抽象化したもの」であり,外世界からの信号と自己との関係から生まれるとするなら,「障害」が自己の「内部」にあるとは断定できまい.ひょっとすると,「障害」は「外世界」のほうにあるのかもしれない.あるいは,外世界と自己とをつなぐ「関係性」にあるのかもしれない.

 そして、これらの問題を考えるときに、クロネッカー&ペアノやラッセル&フレーゲやフォン・ノイマンが構築してきた「自然数の理論」は非常に良いアナロジーを与える、と小島氏は続けます。「自然数」といういわば当たり前の概念を数学的に規定しようとすると、それは簡単なことではなく、「集合」「写像」「帰納的」といった高度な概念が必要になり、そうしてさえまだ、本当に「自然数」を捉えきったのかどうかは定かではない。

だから,数概念を巧く受けとることのできない人を軽々しく「障害」と呼んではならないだろう.それは本人の責任ではなく,「自然数」に認知が届かない何か大きな秘密が「外世界」と「私」をつなぐ「数学」の側にあるかもしれないからだ.

 このあとは、ゲーム理論家の松井彰彦が指摘している、「障害」の規定が自家撞着的であることの話がエレベーターの例で示されています。たとえば、ふつうは二階建ての家にはエレベーターをつけないから、二階に自力で昇れない人は障害者と呼ばれる。ということは、もしも10階建てのマンションにもエレベーターがついていないならば、自力で10階まで昇れない人は障害者と呼ばれることになり、たくさんの人が障害者となってしまう。しかし、10階建てのマンションには必ずエレベーターがついている。つまり、エレベーターを二階建てにはつけず10階建てにはつけるというある種の「慣習」が「障害」を規定してしまっている、というような話です。

この慣習は,二階建てに昇れない人は障害で,10階建てに昇れないのはそうではない,という先入観から来るものである.だとすれば,「障害」という概念は相互定義的であり,自家撞着的であろう.


 そしてこれと同じことが、学習障害にも適用できるだろう、と小島氏は続けます。「水道方式」 が普及する前には、数計算が覚束なかった児童は多かったと聞いているが、これは「水道方式」という道具によって、障害が障害でなくなる可能性を示唆している、と。

このように,学習障害は自家撞着的な概念であり,外世界と自己との接続,その道具としての「数学教育」と相互定義的の関係を持っている.算数・数学教育方法の改革の問題は,「いったい障害とは何なのか」という問題と,表裏一体の関係にあると言っていい.
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