TETRA'S MATH

数学と数学教育
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小島寛之が語る、遠山啓の「量の理論」

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、小島寛之「遠山啓氏の思想から見えるもの」(『数学セミナー』2009年10月号から転載)を読んで感じたことを書いています。

 前回は数教育の理論についてみていきましたが、きょうは量の理論です。とてもわかりやすくすっきりさっぱりまとめてあり、なんだかんだいいながら、遠山啓および数教協の「量の理論」ってこれ以上でもこれ以下でもないのかもなぁ、なんてことを思ってしまいました。

 まずは、量こそが「世界」と「私」をつなぐカスガイであり、量を積極的に取り入れることは、まさに「数学は現実を抽象化したもの」という思想の体現だと言っていい、という話から始まります。

 そして、遠山啓が量を扱う中で最も注目したのが「内包量」の概念であり、その代表的なものが「1あたり量」だ、と続きます。

つまり,外世界を掛け算で掌握するには,「1あたり量」を避けては通れないのである.第三に「1あたり量」の極限として微分が定義されることである.「1あたり量」は無限小算術と切っても切れない関係にあるのだ.そして最後に,1次関数y=ax+bの傾きaは,「xが1大きくなるとyはいくつ大きくなるか」という形で「1あたり量」そのものである.1次関数は,微分を経由することですべての関数の基礎となり,また,線形代数(多次元代数)の出発点でもあるから,「1あたり量」はあらゆる数学の基礎になっている,ということなのである.

 小島氏はこのあともう一歩話を進めます。遠山啓の算数・数学教育はこういうふうに広く深いバックボーンを持っているが、そういった補助線をすべて消し去った「ハウツー」部分しか観測しない人々には、遠山啓がなぜそういう方法を取ったかを理解することはできないに違いない。しかし、そういうことがあまり問題ではないこと自身が貴重だ、と。つまり、「タイルによる数教育」や「水道方式」や「量の教育」は、「ハウツー」だけで子どもたちに目覚ましい効果を発現させ、バックボーンなしでも「実践」を通じて広がっていく生命力を持っており、それこそまさに「数学の自律性」がそのまま体現されたことの自己証明と言ってもいいだろう、と。

 さすがにそれは言いすぎだろう、と私は思いました。やや驚きをもって。それは数学の自律性というようなものではなく、単なる「ひとり歩き」といったようなものではないかと。また、それ以前に、量の教育は「ハウツー」だけで子どもたちに目覚しい効果を発現させるようなものには完成されていません。また、遠山啓のバックボーンを持ち出すのならば、もっともっと深くて複雑なものがあることは、森毅の文章で再確認したばかりです。せめて、小島氏がこの文章ですっきりさっぱりまとめているくらいのこと(もちろん小島氏もこれをバックボーンを呼んでいるわけではないのですが)は、遠山啓の「ハウツー」を採用する人は、知っておいたほうがいいように思います。知った上で「安心して」採用するためではなく、知っているからこそ問い直しながら採用していくために。

(つづく)

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