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数学と数学教育
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森毅が語る、「遠山啓の時代」

 小冊子『いま,遠山啓とは』所収の、森毅による『遠山啓著作集』(全27巻,太郎次郎社)書評を読んで感じたことを書いています。

 1つ前のエントリでは、「遠山啓著作集を読むときには読者の歴史感覚が必要となる」話について書きましたが、このあと実際に時代の話になっていきます。

「この著作集に現れるのは,遠山の後半生であって,ちょうど十年くぎりくらいの三期に分かれよう.」ということで、森毅はその三期を次のようにまとめています(引用ではなく、私が箇条書きとして書きなおしました)。


第一期/50年代、「逆コース」の戦後「日本再建」の時代。遠山啓は四十歳代で、教育問題にかかわりだしたころ。

第二期/60年代、「高度成長」の時代。遠山啓は五十歳代で、東京工大理学部長を含めて、もっとも忙しかった時期。

第三期/70年代、遠山啓は六十歳代。東京工大を定年になって、教育市民運動に傾倒した時代。


 森毅が言うように、時代の節目と遠山啓自身の生涯の節目がうまく同調しています。

「もっとも,遠山の全生涯を問題にするなら,自伝的エッセーから想像される,この著作集以前の時代がある.」として、森毅は著作集以前の遠山啓についても語ります。

 遠山啓二十歳代、日本がファシズムに傾斜していった30年代に、遠山啓は東大をドロップアウトして東北大を卒業するまでの長い学生時代を持っていたわけですが、
当時のこととして,左翼的な交友関係もあるが,それよりも主として,文学青年ないしは哲学青年としてドロップアウトした遠山の青春,それが彼の人間の底流としてあったろう.

と森毅は書いています。私もそのことを、まさにこの小冊子を手にすることで強く感じました。

 そして遠山啓の三十歳代、戦中から戦後へかけての40年代は、遠山啓はなによりも「数学者」としてありました。不本意な海軍の数学教官の体験のなかでの数学研究への孤独な熱中、そして東京工大での数学研究者としての生活。その「孤独な数学者」が「戦闘的な教育運動家」になったのが上記の第一期です。

 以前、このブログにおいて、遠山啓の数学教育運動は親心から始まったというエントリを書いたことがありますが、森毅の解釈は少し違っています。もともと「学校嫌いの数学少年」だった遠山啓に、「教育愛」めいた使命感は皆無だった、あるとすれば、生涯愛した数学が、「教育」のなかで泥まみれになり、多くの人に嫌われているのが耐えられなかったのだろう、というのが森毅の見方です。数学が「教育」のなかで泥まみれになっていることを知るきっかけが、わが子が実際に受けている教育の中身を知ることだったのだと思うのですが、それを親心とよぶかどうかは微妙なところではあります。また、「戦闘的な教育運動家」になったのは、時代状況からくるものもあったことと思います。

それゆえ,しめった「教育界」と異質な,硬質な思考が,貴重な役割を果たしていた.

 遠山啓の1950年代については、このブログでも、汐見稔幸先生の分析や生活単元学習批判などについてのエントリで書いてきましたが、当時の遠山啓は「生活主義」や「政治主義」の潮流に対する「科学主義」の論客と見なされていました。しかし、10年あまりして「政治主義」の潮流が「科学主義」に転じたころには、もはや彼は新しい時代を見ていたし、当時の論敵だった「生活主義」の梅根悟とは70年代における盟友だった、と森毅は書いています。

 それぞれの時代についての説明は割愛しますが、遠山啓が第一期(50年代)、第二期(60年代)、第三期(70年代)でどう変わったかについては、次のような観点で見るとわかりやすくなることを、森毅の文章を通して知りました。なるほど、そういう見方があったか。

第一期の主題が進歩的な「教育運動家」のレベルにあったとするなら,第二期はふつうの「教師」,そして第三期ではただの「市民」が対象となる.この時代の遠山の眼は,「学校」から離れてラジカルになり,こども自身へと向かっていった.かつての「学校嫌いの少年」の魂がよみがえったかのように.

 私の小学生時代は1970年代であり、確かに私にとっての数教協は、「学校の外」にありました。ここが原武史さんと違うところかな?() 地域のサークル活動は地域の保護者の協力のもとに行われていて、校区内なので、そこに集うのは同じ小学校に通う児童と保護者ではありましたが、でもやはりそれは学校外の活動でした(ただし、学校の教室を借りての、数教協の授業というのも1度経験した記憶がうっすらとあります)。

 とにもかくにも、高度成長期の技術革新の声のもとで時代がうねっていた第二期(60年代)は、民間教育運動の時代でもあり、遠山啓の影響は大きかったのだと思います。このあたりについては、戦後の教育運動の社会的、思想的背景・2民間教育団体の啓蒙主義的発想(60年代)で少し書きました。

 そして60年代の革新は、その後半から70年代へとつながっていき、主要な流れとしては、政党や組合の力であったろう、と森毅は続けます。こうした反体制的な制度のなかにあって、遠山の威信は大きかった、と。

 しかし,遠山自身の心には,かつてのドロップアウト時代の魂があって,制度になじまぬところがあったろう.

 70年代は遠山啓が大学を定年になったあとであり、自身が大学という制度から解放された時期ともいえます。そうして、制度の中で行うのではない教育というものに眼が向いていったのかもしれません。なお、この時期に主軸となるのが「ひと塾」です。60年代末の養護学校とのかかわりが教育に開眼させた、と遠山啓は語っているようです。

(つづく)

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