TETRA'S MATH

数学と数学教育
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岡潔『春宵十話』を少しだけ

 帰省前の連絡で言及した手前、読後感をば。読後感といっても、実は最後のほうはまだ読んでおらず、途中もざっと目を通した程度なのですが。今度、春の宵にまた読み直そうかな、と。

 岡潔が話したものを毎日新聞社(当時)の松村洋氏が書き綴った文章であり、しかも帰省中に読み始めたからでしょう、「親戚のおじさんに、面白い話をきいている」という感覚でページをめくりました。昔ながらの日本家屋の八畳間に、重厚な黒塗りの座卓があり、私は庭に向かう障子を背にして座っていて、右前におじさんがいる。おばさんが丁寧に入れてくれたお茶をときどきすすりながら、おじさんの話をサシできく私。うんうんそうだね、とか、うーん、それはどうかな、とか、ああ、おじちゃんはやっぱりすごいねぇ、と相槌を打ちながら耳を傾ける。こんな青二才に、おじさんは本気で話をしてくれる。日本を憂いながら、静かな口調で。でも、どこか元気で、ほんの少しうれしそうでもある。本当であればこれは春の夜なのでしょうが、なぜか背後の庭から秋の虫の声が聞こえる気がしました。

 内容としては、松岡正剛さんの千夜千冊>岡潔『春宵十話』の“案内”のほうが面白いです。逆に、この案内を先に読んでいた私としては、「え? こ、これですか正剛さん?」と確かめたくなりました。もともと、小林秀雄の講演会での登場のしかたとか、「如何ですか。」という言い回しに、ほんのりかすかな違和感、わるくはないんだけれどいつものようにのっていけない気分というか、そういうものを感じていたわけなのですが、松岡正剛さんが私より入りこんでいるので、逆にひいてしまった、という面もあるのかもしれません。

 というか、なんというのだろう、こういう言い方も大変おこがましいのですが、私は岡潔のことは何も知らないのにも関わらず、岡潔がいちばん言いたいことの根っこはもう了解しているといったような感覚があり、「うーん、それはどうかな」という場面があっても、それは批判や次の思考につながる感情ではないのです。「まだまだ話を聞きたいから、もう少し元気でいてよおじちゃん。私も考えてくるから。じゃあね、また来るからね。」という感じで、本を閉じました。

 この夏、「おじさん」からきいた話でいちばん印象に残ったのは、「わかる」ということについてでした。「おじさん」がどういう言葉を使ってどう説明したかはもはや覚えていませんが、わかるときには、自分ではっきりわかる、○とか×とかつけられる前に、それが正しいのか間違っているのか、自分でわかる。おじさんはそんなことを語っていましたっけ。だれかに正しいかどうかみてもらわないと、正しいのか間違っているかわからないのであれば、それはまだわかっていない。
〔2015年1月11日追記〕この点について補足エントリを書きました。>わかるということ/岡潔『春宵十話』ふたたび

 あと、ケアレス・ミスと本質的なミスの話もしていましたっけ。本当の数学は黒板に書かれた文字を普通の目玉で見てやるのではなく、自分の心の中にあるものを心の目でみてやる。計算などしなくても直観でわかる。ただ、計算の利点はあとで間違いをみつけられることにある。心の中のものを心の目で見ていると、不注意による間違い、いわゆるケアレス・ミスがわからない、それを調べるには計算が役立ついえる、と。

 自分の論文などいつもケアレス・ミスが多く、わざわざ訂正文を送らねばならぬくらいだと「おじさん」は語っていました。しかし、ケアレス・ミスが多いことと、本質的なミスがないこととは対応し合うものらしく、これに反して、ケアレス・ミスの全くない論文にたまにミスがあれば、それは致命的なものであって、全体が思い違いだとさえいえるくらいである、と。

 ここを読んで思い出したのは、ポアンカレの論文は、現代数学の目から見れば論理的なまちがいが多いけれど、それでいて、全体で正しく、重要な仕事である、というようなことを斉藤利彌さんが言っていた…という話です(>)。

 以下、『春宵十話』所収、「義務教育私話」より。(p.136)
 
だが、計算能力だけのお先まっくらな目では、起ったことを批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのである。
 数学教育の目的は決して計算にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。数学教育は大自然の純粋直観が人の子の情緒の中心によく射すかどうかに深くかかわっているのであって、計算が早い、遅いなどというのは問題ではない。私たちは計算の機械を作っているのではないのである。
 数学の教え方としては「よく見きわめて迷う所なく行ない、十分よく調べて結果が正しいことを信じて疑わぬ」ようにさせるのがよい。

                         
 あらためて部分的に読み直すと、やっぱり「おじさん」はすごいです。ただ、現実に、小学校や中学校や高校で、そんな算数や数学を実現するにはどうしたらいいんだろう。みんなが、かたく閉じた心の窓を開いて清涼の気を入れるには、どうしたらいいんだろう・・・

 また来るね、おじちゃん。今度、遠山先生のことについてじっくり話そう。水道方式のこととか。あと、量の理論のことも。あれ、量の理論って知ってたっけ? それから、子育ての相談もさせてくださいな。じゃあね。きょうはありがとうございました。

〔2015年10月28日追記〕「ケアレス・ミスと本質的な間違いのちがい」を中心に、いくつか書き直しました。

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