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数学と数学教育
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高橋誠『かけ算には順序があるのか』(岩波書店)を読んで考えたこと

 メタメタさんこと高橋誠さんの新刊『かけ算には順序があるのか』が発売されました!&読みました!

 章立ては、

   第一章 4×6と6×4は違うのか
   第二章 九九の来た道
   第三章 なぜ2時から5時までは3時間で、
         2日から5日までは4日間なのか

となっています。

 この本は、これまで読んだ高橋誠さんの3冊の本のうち、タイトル・表紙・内容すべてに関して、いちばんわかりやすく読みやすくスマートで、内容は深いのだけれど、構成としてはすっきり整っていると感じました。

 ただ1点をのぞいて。

 その1点は何かというと、「第一章・第二章と、第三章のつながり」です。

 私個人は、メタメタさんの思考・志向・嗜好に触れるようになって10年以上たっており、しかも、メタメタさんからかなりの影響を受けつつ、自分は自分で、メタメタさんの興味にかなり近いところで(別の道筋で)日々探求を続けているので、もはやこの本から読み取れることだけ読むのは不可能になっています。なので、他の人はこの本をどう読むのだろう?と気になっています。現段階ではネット上で読める感想を2つ読んでいますが、もう少ししたらいろいろな意見が読めるだろうと期待しています。

 素直に読むと、かけ算の順序にこだわるポイントの1つが「数」と「量」の違いだということが第一章に書いてあり、それが第三章の分離量・連続量の区別の話につながっていっているというふうに読めます。でも、それ以上をこの本そのものからは直に読み取ることができず(第三章が“おまけ”に見えるような気がする)、第三章をふまえてもう一度、第一章をふりかえることをしなくてよかったのだろうか・・・と、メタメタさんのコアなファンとしては思うのでした。でも、それを書くと別のテーマの本になりますね。

 とにもかくにも、「かけ算の順序」論争が、このような「1冊の本」としてまとめられたことは、ものすごく意義深いことだと思います。しかも、これだけ丁寧に教科書の変遷がおさえられていて、九九の歴史がひもとかれていて(第二章、圧巻です!!)、なんてありがたいんだ〜!! メタさん、ありがとう〜!!

 小学校の先生、保護者の皆様、この問題に興味のある方、是非読んでください。

 私の願いは、この本がきっかけとなって、「かけ算の順序にこだわることはおかしい(らしい)」と小学校教師が思うようになり、学校から「順序にこだわる教え方が完全消滅する」ことではありません。そうではなくて、算数を学ぶということ、算数を教えるということはどういうことなのか、この本をきっかけに「うーん」と考え込んでほしい。

 そして、「数学的正しさ」という言葉に対して、「私は数学の専門家ではないから」という気持ちであっさりひるむ必要は全然ないと思う。さらに大事なことは、「教育的配慮」を体のいい言い訳にしないことだと思う。

 私たちにも、子どもたちにも、知る自由と、考える自由がある。そして、創る自由がある。創る自由というのは、新しいルールを作るという意味ではなく、自分のものにする自由です。

 というわけでまずは全体的な印象について書きましたが、これから先はもう少し内容にふみこんで、本から触発されて考えたことを書いてみたいと思います。

 まずは第一章。最初に立ち止まったのは、塩野直道が編集責任者になっていた1951年の啓林館の教科書が紹介されているところ(p.7〜10)です。この教科書のかけ算のページに「5を6かいよせることを,5を6ばいする または 5に6をかける といいます.」という記述があり、これに対して高橋誠さんは、

よせるが「+」のことなら,「+」の数は5個,「よせる回数」は「5かい」です.「6」は,「よせる個数」であって,「よせる回数」ではないはずです.

と書かれています。

 しかし私は(おそらくmixiやブログやツイッターなどですでにさんざん議論されていることだろうと思いますが)、5を6回よせるということは、「0+5+5+5+5+5+5」と考えることもできるのではないか?と感じました。教科書ではもちろんこのような式はなく、2人の場合の5+5から式が始まっていますが、だとしても、です。

 5を6回よせるというのは、何もない目の前の机の上に、まず5こおはじきを「よせて」、次にまた5こ「よせて」、……というふうに、何もない状態からおはじきを6回よせる、と考えることもできると思うのです。しかも、「よせる」という言い方はいかにも“量的”だと私は感じていて、スタート地点を0として、5、5、5、5、5、5と数直線を6回のばしていくようなイメージにもつながります。

 しかし、「5を6かいよせる」という表現はわかりにくいという批判が出たのか、1954年版では「おなじかずを いくつかよせる」と変わっているそうなのです。つまり、よせる数が「回数」から「個数(いくつか)」に変わったわけです。

 でも、「かい」よりも「よせる」という言葉が気になった私は、「かい」が「いくつ」になったことよりも、1954年版では「9に9をよせて18,……」から始まる文章に変わっているところに目が向きました。何もない机の上に9をよせるのではなく、すでにある9に、次の9をよせるところから始まるのです。
 
 というようなことを感じたあと、5×6を「5の6個分」と考える方法は、まるで「1、2、3、4、5、6」に対応させるかのように、「5、10、15、20、25、30」を数えているようで、こっちのほうが分離量的だなぁと思いました。

 そうなると、ちょっと面白いことが起こります。かけ算をたし算のくりかえしとして教えることに反対だった遠山啓は()、かけ算を、“1あたり”から“いくつ分”を求める計算だと定義すべきとしたのですが、これを「5の6個分」に近い考え方だとみなせば、遠山啓のほうが分離量的にかけ算を定義しているように見えてくるのです。

 しかも遠山啓は、「6×4、4×6論争にひそむ意味」において、1あたり量といくつ分の読み替えのときに「カード配り方式」を出してきています。このカード配り方式とは、まさにかけ算を「事」として、「回数」として扱う方法なのではなかろうか?

 分離量と連続量の区別のみならず、内包量と外延量の区別を重要視していた遠山啓の「量の理論」では、ゼロの認識のみならず、1あたり量の認識にも「容器」が必要でした。そんなふうに、(1あたり量)×(いくつ分)、つまり(内包量)×(容量)として考えるかけ算においては、時間性をもつ「カード配り方式」は無理があるのではなかろうか? ということを、以前、かけ算の順序論争を考えたときに感じたのでした。なお、かけ算の文章問題と時間の関係については、親子ブログの「かけ算の文章問題の形を「時間」を切り口に考える」にも書いています。


 次に立ち止まったのは、銀林浩の「土台量」の紹介と、それを順列の樹形図につなげて説明してあるところです(p.16〜18)。


 「自動車が3台あれば、その車輪の数はいくらか?」を

     4×3 (4個/台×3台)

という式で表したときの「3」を土台量とよぶとして、銀林先生は次のようなことを語っているらしいのです。

================================
 まず土台となる集合Xがあって,その各要素xがよく見ると一定の内部量Yを保有しているのだとすると,逆にむしろ,
   (土台量)×(1あたり量)
と書いた方が適切であるかも知れない.
================================

 そして高橋さんは、このことを順列の問題を解くときに使う樹形図を使って説明しています。
 

 ここに書かれているように,まず「土台量」があって,それが「内部量」をもつときのかけ算の式は,普通は土台量を先に書く式になるでしょう.
 たとえば,A,B,C,Dの4人が競走をした.1位,2位の決まり方は何通りあるか,という順列の問題では,4×3という式を書きます。1位の決まり方が4通りあって,そのそれぞれに2位の決まり方が3通りずつあると考えるわけで,樹形図をかくと,図1のようになります.この4×3の式は,「いくつ分(4)×1つ分(3)」という順序の式です.

 で、実際に樹形図が示されており、順列の問題を解く樹形図と、6人の子どもに4個ずつのみかんを配っている樹形図が並べて描かれているのです。これを見て私は、「なるほど樹形図とは思いつかなかったなぁ〜!」と思いました。

 さらに高橋誠さんは、「土台量」が「内部量」を持ち、次にその内部量ひとつひとつが土台量となってさらに内部量を持つ、というように次々に内部量が増殖していく構造の例として、古代エジプトのパピルスにある問題やマザーグースの歌(セント・アイヴスのなぞなぞ)を示しています。

 パピルスもマザーグースも出てくる数値は「7」だけで、その7がどんどん「内部」に増殖していくのです。マザーグースの歌でいえば、7人の妻がそれぞれ7つの袋をもっていて、それぞれの袋に7匹の猫がいて、1匹の猫に7匹の子猫がいる・・・・・・というふうに、まるで拡大しつづけるフラクタル図形のよう。あるいは、大から小へと向かう十進構造のリフレインみたい(この場合は七進構造だけど)。

 余談ですが、マザーグースのセント・アイヴスのなぞなぞは、日本語だと「セント・アイヴスに行くのはいくつ」という訳になるのが、ちょっと不自然なところですね。途中では、“人”とか“匹”がついても、最後で助数詞つけられないから。これ、「行くのはいくつ?」だったから「1人」という答えでよかったけれど、「セント・アイヴスから来たのはいくつ?」だったら、「すみません、袋も数に入れるのですか? それとも生命体だけですか?」と質問したくなる私です。

 パピルスもマザーグースも、もしかすると人類が初めてかけ算を使うようになったときの順序は、むしろ(いくつ分)×(1あたり量)だったのだろうか?と推測したくなる例です。

 なお、この土台量の話は、親子ブログの「図も示すかけ算のプリント」で書いた、「お皿をさきにかいちゃうね」のことと関わる話だと思いました。
 
 あと、ついでに言うと、銀林先生の「まず土台となる集合Xがあって,その各要素xがよく見ると一定の内部量Yを保有しているのだとすると」という表現のなかの「各要素xがよく見ると……を保有している」という言い回しをきくと、郡司ペギオ‐幸夫の『時間の正体』の中の、要素の中に集合を見出す(A系列構成)を思い出します。思い出すだけですが。

 

 さて、第一章の中で立ち止まったところがもうひとつあり、それはどこかというと、「量のかけ算では交換法則は成り立たないのか」の中に出てくる積分定数さんの2重の単位の話です。ここ、とても面白いです。そして考え込みどころです。

 かけ算の式を、(1あたり量)×(いくつ分)にこだわって単位をそえて書くのであれば、

 1人あたり4個のみかんを6人に配る→ 4個/人 × 6人
 1箱あたり2個のキャラメルが3箱ある→ 2個/箱 × 3箱
 1列に2人ずつ5列並んでいる→ 2人/列 × 5列

というふうに、単位の形は 「○/△」×「△」 となるわけですが、(1あたり量)の単位を分母が分数である「○/(○/△)」にして、(いくつ分)の単位を「○/△」にすれば、どんなかけ算も(1あたり量)と(いくつ分)の数値を入れ替えられるという話です。

 積分定数さんは、文科省国立教育政策研究所の担当者と電話で話したときに、先方が「時速4kmで3時間歩くときは1あたり量の数値は時速4kmの4になる」と言ったのに対し、「3km/(km/時)×4km/時」と考えれば、3も1あたりの量の数値となる、と切り返したらしいのです。

 この単位&式について、高橋誠さんは「時速1kmあたりで3km歩く道のりの、時速4km分」という解釈だと説明していますが、私は、「時速1kmあたりで3km歩く“時間” の、時速4km分」の間違いではないのかな?と疑問に思いました。その疑問はまだはれていませんが、はれないままに思うことは、連続量のかけ算の文章問題は「比例関係」を前提にしているけれど、上記のような2重の単位を使うと、「比例という大前提」がより浮き上がってくるのではないか?ということです。

 時速4kmという言い方ができるのは等速運動をしているときであり、どの1時間あたりにもまんべんなく4km進む速さなので、時間が2倍、3倍、4倍、……になると、進む道のりも2倍、3倍、4倍、……になるという比例関係を使って、3時間で「4km/時×3時間=12km進む」と求めることができるわけです。

 一方、「3km/(km/時)×4km/時」の場合は、まず道のりと速さの比例関係を使って時間をとらえ、次に時間と速さの比例関係を使って道のりを出すというプロセスなのではないでしょうか?

 さらに言えば、どちらがどちらに働きかけるのかということについても曖昧になってきて面白いです。速さに時間が働きかけて道のりが出るのか、時間に速さが働きかけて道のりが出るのか?

 なので、積分定数さんの2重の単位に対する私の理解が間違っていないのであれば、(1あたり量)に読み替えにくいものを単位を変えて読み替えることにより、(1あたり量)×(いくつ分)にこだわるかけ算は比例の勉強なのだということがよりはっきりわかるようになった、と言えるように思うのです。(その後の変化>ちょっと比例の話を広げてみる>エレベーターとアクリルたわし圏もどき

 実際、数学教育協議会が (1あたり量)×(いくつ分) という式にこだわった背景には、これを比例につなげるという発想があったと私は認識しています。(1あたり量)というのは(単位あたり量)であり、内包量であり、比例定数にあたるものです。そして、内包量を求めて比例問題を解くのが帰一法です。だからわざわざ、内包量を「度」と「率」に分け、さらに、均等分布の考えにくい打率や三角比などの「比的な率」をいちばん最後に学ばせようとしたのだと思います。どういうことかというと、等速運動や密度やよく混ぜた混合物の割合などの「均質な状態」をもとにして考えるということは、比例を大前提としてものを考えるということであり、そこを十分に学習した上で比を考えるというのが、遠山啓がもともと考えていたことだと私は理解しています。その結果、遠山啓の比は幾何学に位置づきにくいのです。

 もっといえば、数教協にとっては、2種類の外延量のわり算で求められる内包量(密度や速度など)はあくまでも量なので、現代の教科書のように「単位量あたりの大きさ」とはよばずに「単位あたり量」とよんだのだろうと私は推測しています(あくまでも推測)。逆に言えば、教科書としては「単位量あたりの“大きさ”」なのでしょう。ついでにいうと、遠山啓が割合分数に強く反対して量分数にこだわったこととも見事につながります。分数=わり算で得られるもの=内包量は、「2つの分離量の関係」ではなく、「1つの連続量」だから。

 つまり、すべてつながっているのです。小学校のかけ算から、高校の微分積分にいたるまで。というか、つなげてあるのです。

 思えば、微分を積の形でおさえようとした森毅に対して、遠山啓は商の形でおさようとしたという話は、象徴的かもしれません。

 しかし、遠山啓の「量の理論」は、結局、完成した形では算数教育に取り入れられなかったと私は思っています。なぜならば、比・割合と比例の問題をクリアできなかったから。逆に言えば、未完成のまま取り込まれてしまい、その名残が色濃く現在の教科書に残っているのだと思います。

 それはそうとしても、積分定数さんの2重の単位については、別の方向でまだまだ深めて考えられそうです。たとえば、アクリルたわし圏の「射」を「対象」にした圏ができるのではなかろうか?なんてことも思いました。

 また、ディメンジョンという言葉の意味についても考えたくなりました。量について考えるとき、ディメンジョンとは単位なのか、それとも次元なのか。たとえば、面積の単位cm^2などを「2次元の単位」とよぶことにした場合、速さの単位や加速度の単位はなんとよぶことになるだろう?とか。世の中には、「加速度の変化率」である加加速度という言葉もあるようですし。

 そんなふうにして、いろいろと連想が広がって楽しいのですが、そのあたりはまた後日ゆっくり考えることにして、第二章に進みたいと思います。

 その前にひとつ補足を。遠山啓の(1あたり量)×(いくつ分)は徹底していて、長方形の面積も、(縦の長さ)×(横の長さ)ではなく、(幅1cmの面積)×(何cm幅)でとらえていたと思います(ストレートな複比例ではない)。あんまり徹底していて、それにタイルがからむものだから、妙なことになっていったのでしょう。

 

 


 〔2018年4月5日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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