TETRA'S MATH

数学と数学教育
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数学と権威/数学と自然

 遠山啓『文化としての数学』を読んでいる最中ですが、いつか書こうと思っていたことを書くタイミングがきたように思うので、書きながら考えるために、きょうはそのことを書いてみます。

 以前、圏論の周囲の気になりごとをちょっとだけメモ(リンク) というエントリにおいて、檜山正幸のキマイラ飼育記「僕がだんだんと郡司ペギオ-幸夫さんに批判的になっていった様子」をリンクしました。檜山さんは、ご自身が詳しいジャンルだけに、郡司本に出てくる数理論理学や圏論、あるいは数学的概念の(檜山さんから見た)雑さ、いいかげんさが耐えられないのだろうと想像しています。

 郡司本に出てくる数理論理学や圏論そのものについては、私自身は検証するほどの知識はもちあわせていないのでなんとも言えないのですが、上記リンク先の次のエントリ、笑いが恐怖に変わるとき:江本勝さんと郡司ペギオ‐幸夫さんの最後の部分「なにが不快なのか」に書かれてあることは、少なくとも郡司ペギオ‐幸夫についてはあてはまらないと思っています。

 檜山さんは、次のように書かれています。
 

数理科学の概念・用語・記法を使うことが、伝達・コミュニケーションに役立ってないどころか誤解と困惑しか与えないのだから、「権威付けに使っている、まやかし、こけおどし」と非難されてもしょうがない。

 「誤解と困惑を与えている」ということは、もしかしたらあたっているのかもしれませんが、「権威付け」のために郡司ペギオ‐幸夫は数理科学の概念・用語・記法を使っているわけではないと私は思います。

 まず、数理科学の概念・用語・記法を権威付けに使うことは可能かどうかについて考えてみます。なお、“権威”という言葉はそのときどきのニュアンスをもって使われるものだと思いますが、ここでは「まやかし、こけおどし」とセットにして語られ得る“権威”に的をしぼります。

 で、可能なのでしょう。もし、数理科学の概念・用語・記法に権威を感じる人がいるならば。

 そんなに込み入った話ではなくても、「科学的に証明されている」という言葉が、「主観的な思いつきではない」という意味において、あるいは「真理に近い」という意味について使われることは、そう珍しくないと思います。このあたりについては、科学への信頼の中身に書きました。

 権威付けに使っているのではないとしたら、なんなのか。

 ときかれたら、逆に郡司さんが困ってしまうかもしれません(いや、こういうことで困る人でもないのかな)。逆にいえば、なにゆえ、数理科学の概念を使うことが、そんなに不快なのか。という問いは、かつてラカンの精神分析に違和感を感じた私への自問でもあります。
 

もともと数理的な話をしてないのなら不必要でしょ、そんなこと。

 「もともと数理的な話」ってなんなのか。数理的であるか否かは、もともと決まっていることなのか。

 以前、意味の編集というエントリで、『時間の正体』は参考文献にあげられている100冊あまりの本のエッセンスを郡司さんなりに編集したものではないか、と書きました。もちろん、100冊というのは参考文献のおよそ数の話であり、そのそれぞれがまた編集物なので、100冊どころにおさまる話ではない、あるいは数えられるorはかれる量の話ではないのですが、何が言いたいかというと、独特なものに感じられる郡司ペギオ‐幸夫の世界観も、おびただしい数の論文・書籍・先行研究・ものの捉え方・考え方をベース&ヒント&道具にしているのではないか、ということです。引き継ぐにしろ、批判的検討をするにしろ。数理科学の概念だって、そのひとつなのではなかろうか。しかもかなり強力な道具。

 だからといって興味が散漫ということはまったくないし、むしろその逆で、郡司さんが興味があること、あるいは言いたいことって、1つか2つか3つくらいなんじゃないかな?と私は感じています。だれでもそうなのかもしれない。

 たとえば檜山さんは具体例として、「可能世界と単位元」のことを取り上げておられます。檜山さんにとっては、

無矛盾な形式的体系を構成するためには、可能世界は先見的に見渡されねばならない。だから我々は、可能世界全体を、Dに「何もしない」という操作を付け加えておくことで定義せねばならない。

という郡司さんの言葉は「自由生成された半群Dに単位元を付け加える(という、ただそれだけの)話」(太字は私の強調)であり、笑いどころであるらしいのです。

 私は、この記述が出てくる本は読んでいませんが、『時間の正体』と格闘している身としては、郡司さんの上記の文言には笑えません。かといって深刻になるわけでもなく。たぶん、「先見的に見渡されねばならない」というところがミソなんじゃないのかと想像しています。こういう表現に胡散臭さや笑いどころを感じる檜山さんの感覚もわからないでもないし、確かに数学の中だけの話なら、「ただそれだけのこと」だと思います。

 少し前に、『時間の正体』の中に出てくる客観的な出来事系列と主観的時間系列の調停の話を書きました。あのとき私は、「出来事系列が分配律の成り立つ束(分配束)へ近似されるかのように修正・維持される時間構造」までの話を、「分配束」という言葉を使わずに、「整った」という言葉に変えて書きました。分配束という用語を説明なしで使いたくなかったからです。しかし、「整った」という言葉は非常に曖昧で、本来であれば、かえってわかりにくい言葉です。

 あのとき、できれば「分配束」を、 x∧(y∨z)=(x∧y)∨(x∧z)、x∨(y∧z)=(x∨y)∧(x∨z) という分配律の式を使わない形で表現したかったのです。ハッセ図を使ってずっと語っているのだから、ハッセ図でもっと直接的に表現できないものか、と。でも、いい表現を思いつかなかったので、「整った」でごまかし、最終的に「分配束」という言葉を出したしだいです。

 人間の時間的感覚、特に、客観的な出来事系列と主観的時間系列の関係は、“もともと数理的”な話ではないのかもしれません。でも、そこに「分配律」といったような、数学的な概念を見出すこと、あるいは仮定すること、あてはめて考えることは、まやかしでもないし、滑稽なことでもないのではなかろうか。人間が分配律を式や概念で理解して、それが時間的感覚に反映されるということではなく、成長の段階で獲得される時間的感覚が、分配束という構造を持っているかもしれない、という意味において、私は「そういうことってあるかもしれないねぇ」と感じたのでした。
 
 もしかするとそのことは、巡り巡って、遠山啓がいうところの、「数学の公理系は自然を深く反映するようにえらばれている」()ということと、どこかでつながるかもしれません。

       *       *       *

 とはいえ、私は檜山さんのはじめての圏論シリーズには大変に感謝していますし、郡司本はもう少し書きようがあるのではないか・・・という思いもあります。でも、書き換えると郡司さんの本ではないな。だからあとは、自分しだいだ。

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